男と女はどう線引きすべき?
成人の定義って?
安全な堤防の高さとは?
混迷するボーダレスの時代に基準値の進化は止まらない!
『世界は基準値でできている 未知のリスクにどう向き合うか』、
2014年に出版され大反響を読んだ名著『基準値のからくり』、待望の続編!!
*本記事は、『世界は基準値でできている 未知のリスクにどう向き合うか』(ブルーバックス、2025年刊行)を再構成・再編集してお送りします。
CO2濃度の基準値1000ppmの歴史
日本では、すでに明治時代から、換気の指標としてCO2濃度が測定されていたようだ。学校の教室でCO2濃度が1000ppmを超えると有害である可能性は、1902年に示されていたという。これにはCO2そのものの影響だけでなく、室内空気質の総合指標という面もあった。明治時代からCO2濃度の基準があったというのは驚きである。
前述のように、世界でも「CO2濃度1000ppm」を換気の目安としている国は多いのだが、そこに至るまでの「換気の基準値」の歴史を少し追究してみると、これがまた大変興味深いのだ。
参考にしたのは、2021年に空気調和・衛生工学会が公表した「必要換気量算定のための室内二酸化炭素設計基準濃度の考え方」という提言である。学会が出す提言にしては書き手の個人的な思いが強く感じられ、読み物としても非常に面白い。
提言の具体的な内容は、外気のCO2濃度が上昇傾向にあることから、換気の基準は室内のCO2濃度1000ppmではなく、外気のCO2濃度+700ppmと、「外気濃度」をベースにすることが望ましい、というものだ。この提言の中に、「室内のCO2濃度1000ppm」をめぐる歴史のくわしい解説があり、注目に値する。以下に、その要約を掲げよう。
・17世紀頃から、空気のよどみや、人混みによる汗が、伝染病や熱病の原因であると考えられるようになった。
・18世紀にフランスの化学者ラボアジエは、多数の人間がいる室内で人々が不快になったり病気にかかったりするのは、人体から発生するCO2が原因であるとする考えを発表した。
・19世紀中頃、「近代衛生学の父」とも呼ばれるドイツの化学者ペッテンコッフェルは、通常の室内におけるCO2の増加や酸素の減少は、けっして有害なものではないことを証明し、有害な空気汚染の主原因は、人体から発生する有機物であると主張した。そして、その空気汚染はCO2濃度の上昇をともなうため、長時間在室する部屋でのCO2濃度は700ppm、通常の部屋では1000ppm以下にすべきという目安を提唱した。
(筆者注:これがCO2濃度の基準「1000ppm」の源流である。彼はコレラの「細菌原因説」を主張したコッホとも対立し、糞便による環境汚染が原因と主張した)
・1936年にヤグローらが、重要な汚染物は人体から発生する体臭であり、体臭濃度を許容できるレベルに保つために必要な換気量(25~30m3/時/人)を提案した。
(筆者注:ヤグローはCO2濃度を指標とすることには否定的であった。そして、ヤグローが提案した数字が、現在各国における換気量の基準の基礎となっている)
・1980年代以降、オイルショック後の省エネ対策として、建物の気密性が高まり、揮発性有機化合物による「シックハウス(シックビルディング)症候群」とよばれる症状が問題となった。その結果、人体から発生するものだけではなく、建物から発生する汚染も重要であるという考え方が生まれた。
ここにあるように、CO2濃度の基準値「1000ppm」を最初に提唱したのは、ドイツのペッテンコッフェルである。日本の明治時代には、森鴎外ら複数の留学生がペッテンコッフェルの下で学んでおり、CO2濃度を指標とする換気の知見も、このとき日本に持ち帰ったのである(ちなみに鴎外は孫に、ペッテンコッフェルの名前である「マックス」にちなみ「まくす」という名をつけている)。
また、換気量の基準値である「30m3/時/人」のほうは、もとをたどれば体臭の充満を許容できるレベルに保つための基準だったとのことで、これも驚くべき由来だろう。
一方で、現代の揮発性有機化合物による、建物から発生する汚染物質については、人がいなくても充満していくので、CO2濃度は指標にならない。
根拠はないが、役には立つ基準値
どういうときに換気をすればよいかの基準値としての 「CO2濃度1000ppm」の由来が少しずつわかってはきたものの、新型コロナウイルスとの関係については、まだよくわかっていないというのが現状のようだ。
この基準を満たせば「換気の悪い密閉空間ではない」といえるだけの話であって、新型コロナウイルス感染のリスクをもとに決めているわけではないからだ。
先に紹介した慶應義塾大学の奥田らは、実際に、新型コロナウイルス感染症のクラスターが発生した際のCO2濃度を推定した結果を報告している。89名中10名が新型コロナウイルスに感染したケースで推定された、感染当時のCO2濃度は、9000ppmを超えていたという。1000ppmと比べて、非常に高い濃度である。
ただし、これは新型コロナウイルス発生からまもない時期(いわゆる第1波)の事例であり、その後の変異株のものではない。初期の株より感染力が強くなると換気の目安が変わるのかもしれないが、そのあたりの知見は不足している。
そう考えれば、CO2濃度が1000ppmを超えなければ大丈夫とはけっして言い切れるものではないが、現時点における一つの目安としては、この基準値は役に立つと言ってよいだろう。
CO2濃度が指標であれば測定機器が安価で、測定も簡単であるというメリットもある。温度計のように置いておくだけでリアルタイムの数値が表示されるので、部屋に置いてドアを締めきれば、数値がどんどん上昇するのがよくわかる。
なお、測定機器にもいろいろなタイプがあり、選定には注意が必要なようだ。最後に、経済産業省が2021年11月に公表した「二酸化炭素濃度測定器の選定等に関するガイドライン」に掲げられている、選定すべき機器の用件を紹介して本章を締めることにしよう。
仕様
・検知原理が光学式を用いたものであること
・補正用の機能が測定器に付帯していること
動作
・屋外の二酸化炭素濃度を測定したとき、測定値が外気の二酸化炭素濃度(415ppm~450ppm程度)に近いこと
・測定器に呼気を吹きかけると、測定値が大きく増加すること
・消毒用アルコールを塗布した手や布などを測定器に近づけても、二酸化炭素濃度の測定値が大きく変化しないこと