2024年、ノーベル物理学賞が人工知能分野に与えられた。しかし、受賞したヒントン氏、ホップフィールド氏より十数年も早く同等の理論を発表していた研究者がいる。
数々の偉大な業績を残し、「AI界の伝説的な研究者」とも言われるその人物こそ東京大学名誉教授の甘利俊一氏だ。
この度、甘利氏の著書『脳・心・人工知能〈増補版〉』(講談社ブルーバックス)が刊行された。本書の中から、一部を抜粋してお届けしよう。
*本記事は、『脳・心・人工知能〈増補版〉』(ブルーバックス)を再構成・再編集してお送りします。
30年前に起きたネット炎上事件
1980年代後半にはインターネットが普及し、大変便利になった。その頃、ニューロの分野でも皆が意見を交換するネット上の広場(いまでいえばソーシャルネットワーク)ができあがった。
その中の1つに、甘利に対する公開質問状なるものが提示されたことがあった。
私はそこに加入していなかったので、そんなものが出回っていることを当時まったく知らなかった。質問状はアメリカにいるP氏からのもので、「私は神経回路のテンソル理論を考案して発表した。しかるに甘利はボルツマン機械の論文でテンソルを使いながら、私の論文を引用していない。これは許されざる不正である」というものであった。
テンソルは古典微分幾何の道具であり、行列を拡張したものである。行列を使おうがテンソルを使おうが、それはよく知られた数学の道具であって、誰が創始者ということはない。しかもP氏の論文は2階のテンソル、つまり行列しか使っていないので、これはまったくのいいがかりである。
しかし、彼は続けて「日本の文化は創始者を尊重せず、アイデアを無断で借用して勝手に発展させる風習がある」とまでいい切って論争に火をつけた。
折しも日本はバブル経済の真っただ中で、やっかみを交えて、日本は基礎研究をしないで外国の成果を模倣し、これを技術化して成功していると非難された時期である。だが日本は貧しい時期にしっかりとした基礎研究を行い、さらに外国からも学び努力して技術化に成功した。
しかし、バブル経済ですべてを失った。これには、政界、財界、官界、学界のすべてに重大な責任があるのに、その反省に乏しいのはどうしたことだろう。
さて、P氏の発言を受けて多くの人たちから、論文の引用はどうあるべきか、創始者のアイデアは尊重されるべきであるが日本の文化は模倣をもっぱらとするのかなど、多くの意見が続出して議論に花が咲き、いずれもが「甘利の意見をぜひ聞きたい」と結んでいた。
P氏は私に直接質問状を寄こさず、私がそれを知らないことを見越して勝手にネット上で火をつけていたのである。
甘利氏の反論
日本の友人からこのネットワークの論争のことを聞いて、私はこれに加入してすぐに反論を書いた。
私の意見は簡単である。
P氏は以前私に、自分の論文の引用をしてほしいといってきたが、それは無関係なので断った。さらに自分を日本に呼んでくれといったが、これも断った。その腹いせに、私が知らないのをいいことに、このような意見を発表した。
意見をいう皆さんはその前に私の論文を読んで欲しい。
私は情報幾何という新しい理論を創始し、それを神経回路に応用した。それが私の論文で、P氏のテンソル理論とはまったく無関係である。日本の文化は独創性を重んじ名誉を大切にすることはもとより、数々の独創的な学術的貢献をしている
この反論で風向きがすっかり変わって、甘利のいい分が正しいとなって、P氏は逆に非難の嵐にさらされることになる。
炎上事件はこんな時期からあったのだ。