長年ハワイに暮らしながら現在は東京大学にも拠点をもつ、アメリカ文化研究者の吉原真里さん。法政大学で教鞭をとり、高校時代に出会った日本語で小説を書くグレゴリー・ケズナジャットさん。
英語と日本語のあいだを往来しながら暮らし、研究や教育に従事し、執筆活動をおこなう二人の頭の中はいったいどうなっているんだろう?……そんな素朴な疑問から始まった新連載「英語と日本語を往来する」。二人が往復書簡方式で、言語について考えるテーマに沿って書き進めていきます。
最初のテーマは「英語と日本語と自分」。そもそも心の中では、どちらの言語で思考していますか? 英語と日本語で人格が変わったりしますか? まずは吉原さんから教えてください!
「日本語の私」と「英語の私」
グレゴリー・ケズナジャットさま
この連載担当の編集者と一緒に赤坂でお食事をしたのは、2月の寒い夜でしたよね。あっという間に春を飛ばして真夏に突入してしまいましたが、その後いかがお過ごしですか。新居での生活には慣れましたか?
Xのメッセージ記録を遡ってみると、私がハワイからケズナジャットさんに初めて連絡を差しあげたのは2023年11月でした。日本の大学で教えている元教え子とニューオーリーンズの学会で再会することになっていたので、ずっと読みたいと思っていたケズナジャットさんの著書を彼に買って持ってきてもらい、ハワイまでの帰りの飛行機で2冊を読んだのでした。連載初回で読者のみなさんに公開するのもちょっと恥ずかしいけれど、これがそのときのメッセージです。
グレゴリー・ケズナジャットさま
はじめまして。突然のメッセージで失礼いたします。ハワイ大学アメリカ研究学科の吉原真里と申します。
『鴨川ランナー』と『開墾地』を拝読しました。あれもこれも肌から沁み込み心に響くことばかりで、一方的に心の友を見つけた気持ちになりました。『鴨川ランナー』、『異言』、『開墾地』の順にどんどんと、場所や文化に属する(または属さない)ということについての描写が言語とのかかわりを通じて深まっていって、本当に引き込まれました。英語という普遍語・覇権語の権力・暴力に負け戦と知りつつ必死で抗う日本語文学者の思いが、葛と戦うラッセルのお父さんの姿に感じられます。
どちらの本も、装丁もとても素敵ですね。デザインも手に取った感触も抜群です。
私は先月『不機嫌な英語たち』という私小説風の本を出したところです。英語との出会いと、それによって変わる自分と世界との距離、「日本の私」と「アメリカの私」、「日本語の私」と「英語の私」の溝を描こうとしたもので、ケズナジャットさんとは言うなれば逆方向の物語です。読んでいただけたらとても嬉しいです。そして、いつかお会いしてお話しする機会があればと思います。
とつぜん失礼致しました。これからもケズナジャットさんの作品を読むのを楽しみにしています。
吉原真里
ケズナジャットさんがすぐに温かいお返事をくださったので、生来お調子ものの性格にオバサンの図太さが加わった私は、2024年3月に青山ブックセンターで予定されていた『不機嫌な英語たち』刊行記念トークイベントで是非ケズナジャットさんに聞き手をしていただきたいとお願いしたのでした。その日が初対面だったので、適度な緊張感と新鮮さのある、いいトークになったと思っています。引き受けてくださり本当にどうもありがとうございました。
それがきっかけとなって始まるこの連載。私は計30年以上になるアメリカ生活を経て、これからしばらくは東京とハワイを行ったり来たりする生活になりました。そんなとき、「英語と日本語と自分」についてケズナジャットさんと一緒に考えることができるのは、とても嬉しいです。ご存知のように、私は水村美苗さんの作品をこよなく愛し憧れる人間ですので、水村さんと辻邦生さんの『手紙、栞を添えて』みたいに自分がケズナジャットさんと往復書簡の連載をするというのが、なんともワクワクドキドキです。どうぞよろしくお願いします。
相手との関係性が変わる
さて、編集者からの、「そもそも心の中では、どちらの言語で思考していますか?」という質問。これ、バイリンガル(やマルチリンガル)の人はしょっちゅう訊かれるんですよね。「夢はどっちの言語でみるの?」もよく訊かれますよね。私はそのたびに、「う〜ん、状況によるかなぁ……」とか、「あんまり意識しないでいることが多いかなぁ……」とか、いまひとつ質問者を満足させないような答をしてしまうのですが、ケズナジャットさんはどうですか?
ふたつめの、「英語と日本語で人格が変わったりしますか?」という類の質問もときどきされます。「きっとこの人は、『英語のほうがはっきりと自分を主張するのに対し、日本語だと相手との関係性を優先したりソフトな表現になったりします』とか『自分の第一言語でないほうが自由になれることもあります』とかいう答を予想しているんだろうなぁ」とか思うと、天邪鬼の私はムキになって「いや、別に人格は変わりません!」と言い張りたくなったりしてしまうのですが、そういう私の器の小ささは置いておいて、せっかくここで真正面から質問されているので、あらためて考えてみるとしましょう。
私の場合、頭でひとつの言語で考えながら口ではもうひとつの言語で話すという状況も、皆無とは言えません。アメリカで会議中に「こいつ一体なに言ってんねん?」と思いながら、 “With all due respect, I don’t think that makes sense.(「たいへん僭越ではございますが、仰っていることには納得いたしかねます」)”などと話し始めるとか、逆に日本の職場で頭の中で “Oy vey! (「おいおい」「やれやれ」的な表現)” と言って rolling my eyes(呆れたり苛立ったりするときに白目をむく表情のこと)しながら、顔はにっこりして「あのう、すみません、それってこういうことですか?」と口にするとか。(こういう例を考えようとすると、不思議と頭の中の言語が自分の生来語ではない関西弁とかイディッシュとかになるのはなぜでしょうね。)とはいえ、頭と口で別々の言語を同時に使うのはやはりややこしいので、日本語で話しているときは頭の中も日本語、英語で話しているときは脳内も英語、というのが普通だと思います。
そして、「英語の自分」と「日本語の自分」で変わるのは、自分の人格や性格ではなく、相手との関係性なのだと思います。
こういうことを言うと、「日本語では上下関係があって敬語が難しいけど、英語ではもっとフラットにものを言える」といったふうに理解されることが多いのですが、ここでも私は大声で「いや、そんな単純なハナシじゃないんですっ!」とか言いたくなるのです。英語には敬語がないとか、英語圏文化には上下関係がないというのは、まったくの誤解だと思いませんか? 日本人の書くビジネス英語や社交の場での言葉遣いは、妙にエラそうだったりぶっきらぼうだったり、あるいは逆に必要以上に遜っていたりすることがあるでしょう。相手との関係性に表現がマッチしていない例ですよね。
「英語圏は言語によるコミュニケーションを重視するローコンテクストな文化であるのに対し、日本は空気を読んだり忖度したりといった言語以外のコミュニケーションに比重を置くハイコンテクストな文化だ」などという眉唾なことを嬉しそうに言う人もいますが、そういうセリフを聞くと、もう面倒臭くて一目散に逃げ出したくなるのは私だけでしょうか? どんな文化にも非言語の表現はいくらでもあるし、どんな言語でも、その言語使用者が共有する一定の知識や認識、経験や記憶、思考や論理――つまりは「コンテクスト」――を前提に意思疎通がなされ、またその言語がコンテクストを生み出すのであって、言語そのものにコンテクストの高低が内在しているのではないはず。
社会的文脈の中の「アイデンティティ」
さて、『不機嫌な英語たち』の最後でも書きましたが、あの本はもとはと言えば水村美苗さんの『続明暗』と『私小説 from left to right』に引っかけて『続私小説 on left and right』として構想していたものです。いろいろあって(という日本語の表現は便利ですね、笑)けっきょくだいぶ違う性質の本になったものの、私がその構想で伝えたかったのはまさに、「言語によって、読者と自分のあいだにあるコンテクストが違う」ことでした。
日本語で「駅前の喧騒」や「旅館の名前の入った茶色のスリッパ」や「殿」や「昭和の空気」と書けば、私が伝えようとしているのとそう違わない光景や人物を読者も思い描いてくれるとの前提で話ができる。それに対して、アメリカの学校で学年末に配られる yearbook について日本語で書くには、まずそれが何なのかを説明しながら物語を展開しなくてはいけないし、ベトナム難民としてアメリカで育った男性やエルサルバドル移民としてハワイで働く男性について日本語で語るには、それがアメリカやハワイにおいてどういう意味を持つのかを読者がある程度思い描けるように文章展開をセッティングする必要がある。
いっぽう英語の文章では、one of those Asian (American) piano students at Juilliard(ジュリアード音楽院にたくさんいるアジア系(アメリカ人)のピアノ専攻の学生のひとり)とか woman of color faculty(有色女性の教員)と書けば、その背景にある人種やジェンダーの歴史や力学について読者はある程度の共通認識を持っているものとして、そのまま物語に入っていくことができる。……とは言っても、私が英語で書くとき、とくにアメリカやハワイの物語を書くときに、想定しているのは主にアメリカの読者であって、同じ英語の読者でもフィリピンやガイアナやインドや南アフリカの人が、one of those Asian (American) piano students at Juilliardとか、woman of color facultyとかいった表現から何を思い浮かべるのかはわかりません。そういう意味では、日本語と英語では「コンテクスト」のありかたそのものが随分と違いますね。
というわけで、同じ物語を語るにしても、言語によって語りが変わるのは当然ですが、そのときに変わるのは「人格」ではなくて「アイデンティティ」、それも、自分のなかに不変に固定して内在しているものとしてのアイデンティティではなくて、社会の文脈のなかで構築されるカテゴリーや境界、周囲から要求・期待される役割などによって形成される、状況や相手との関係性によって変化する「アイデンティティ」なのではないでしょうか。でももしかすると、ここで私が「人格」と「アイデンティティ」を別物として語ろうとしていること自体が、日本語的な世界観と英語的な思考の分離を体現してしまっているのかしら?
なんだかのっけから理屈っぽい文章になってしまいましたが、ケズナジャットさんも、たとえば『開墾地』の物語を英語で書くとしたら、語りはだいぶ違ったものになるのではないですか? 同じ物語を日本語と英語の両方で書いてみたことはありますか? ケズナジャットさんにとって「英語と日本語と自分」とはどんなものでしょう?きっと私とはまたずいぶん違った視点や考えをお持ちだと思います。
「いや、僕は英語と日本語では人格が違います」というお返事が来たらどうしようと、ちょっと緊張しなくもないですが(笑)、それはそれで面白いやりとりになることでしょう。お返事を読むのがとても楽しみです。
これからさらなる猛暑となることでしょうが、どうぞお身体にお気をつけて。
2025年6月 東京 本郷の研究室より
吉原真里
【第1回 了】
*次回執筆はグレゴリー・ケズナジャットさんです。