明治時代の監獄
日本が近代化を遂げる過程では、さまざまなゆがみが生まれました。代表的なゆがみの一つが「北海道の開拓」で生じたさまざまな抑圧でしょう。
たとえば、明治初期の北海道開拓においては、東京から送られてきた囚人が、無報酬で過酷な労働を強いられ、多くがその地で無惨に命を落としました。
極寒の地で、囚人たちはどのように暮らし、どのような労働を強いられたのでしょうか。
その詳細を記録文学としてまとめたのが、作家の吉村昭です。
作品の名前は『赤い人』。
小説というかたちをとっていますが、大量の資料を駆使して綿密に調査し、ギリギリまで事実に迫った作品です。
本書は、明治14年、東京の小菅にある「東京集治監(しゅうちかん)」から、朱色の獄衣を身につけた40人の囚人たちが、船に乗せられ、北海道に送り込まれるところから始まります。
北海道に着いた囚人たちが置かれた環境は、息を呑むものがあります。資材の運搬の負担のために体を壊す者、雪と寒さで足の感覚を失い、獄舎まで歩けなくなる者、出口のない生活に精神に異常をきたす者、脱獄に失敗し看守に斬られる者……。
以下では、明治14年4月下旬、囚人たちが東京から北海道へと移送されるさいにさらされていた不安を描き出した場面を、本書から引用してお届けします。
獄舎に囚人が詰め込まれ…
***以下引用***
かれらが他の監獄署に移されることを看守から告げられたのは、前日の夕刻であった。理由は、かれらにも容易に推察できた。
かれらの収容されている東京集治監は、二年前の明治十二年に設置されたが、集治監は維新後起った江藤新平の佐賀の乱、神風連の乱、萩の乱、つづいて西南の役によって逮捕された国事犯を収容するためにもうけられた獄舎で、さらに終身懲役囚、労役を課す徒刑囚、流刑囚がくわえられた。
そのため、集治監には定員をはるかに越えた囚人がつめこまれ、監視態勢も危機におちいっていた。そうしたことから、かれらが東京集治監から地方の監獄署にうつされることも当然の成行きだった。
収容されている囚人の数が多いため、囚人の感情は険悪で、その年の三月に終身刑で服役していた囚人ほか十三名が脱獄し逃走したのをはじめ、六月に四名、七月に十名が獄を破り、看守に重傷を負わせて姿をかくす事件まで起っていた。
移監を告げられた囚人たちは、東京集治監に収容されていることを不満に思っていたが、他の監獄者に移されることに不安もいだいていた。獄舎の設備が東京集治監のそれよりも好ましいものであるという保証はないし、新しい囚人たちとの接触も気がかりであった。囚人たちには、環境の変化をおそれる気持ちが強かった。
***引用ここまで***
明治初期の囚人たちが置かれた環境や不安がよく伝わってくる一節です。
さらに【もっと読む】「幕末日本には、海外から讃えられる「凄腕の外交官」がいた…その男の「命をかけた」圧倒的な覚悟」の記事では、吉村が描いた「幕末の外交官」について紹介しています。