ジュワジュワという心地よい音を出しながら店頭でハムカツを揚げる惣菜屋に、威勢のいい声で今日のお買い得品を叫ぶ八百屋。
昔ながらの個人店が並ぶ商店街を歩く3人組の女性は「はやくお米の値段が下がればいいのにねえ」と、世間話に花を咲かせている―改札を出た瞬間に広がる懐かしい光景に、人気ドラマ『不適切にもほどがある!』よろしく、古き良き時代にタイムスリップしたような錯覚に陥る。
かつては「東洋一のマンモス団地」と謳われた高島平。この町に漂う昭和の香りがいま、かき消されようとしている。大規模なタワマン建設計画が浮上しているのだ。
巨大な建造物であるタワマンの建設計画に、反対はつきもの。高島平でも反対の声が挙がっているが、その理由はこの町特有のものだ。「再生と破壊」のはざまに揺れる高島平のいまを追う―。
最盛期には3万人が暮らした団地
まずは「知られざる高島平の歴史」を振り返ろう。
高島平の歴史は、他の東京の街と比べると浅い。明治時代から1960年代までは「赤塚・徳丸田んぼ」と呼ばれる広大な水田地帯が広がっており、関東地方の食料の供給源として名高かった。
その光景は戦後復興に合わせて一変する。復興景気に沸く東京には、地方からの労働者の流入が続いたが、彼らには住むところがなかった。約270万戸とも言われた住宅不足を解消するため、’55年に「日本住宅公団(現UR都市機構)が発足、日本各地に次々と団地を建てていく。
最も大きなプロジェクトのひとつが、高島平だ。70年代に入ると大量の住宅供給が行われ、’72年には東京ドーム8個分の土地に64棟が並ぶ高島平団地が誕生、東京の住宅不足は徐々に解消へと向かう。
「住宅公団初の高層住宅団地というバリューに、東京都心まで都営三田線1本で行けるアクセスの良さが加わり、新婚カップルを中心に大人気の物件となりました。団地で暮らしながら頑張って働き、いつかはマイホームを建てるというのが当時の日本人の夢。高島平団地はその夢の中心でした」(団地の歴史に詳しい「団地再生支援協会」の砂金宏和副会長)
最盛期には3万人が暮らし、小学校だけでも7つを数える超成長地区……だったのだが、住み心地よい町だったため、子育てを終えても住み続ける人が続出。団地とともに歳を重ねた結果、現在、同団地の高齢化率は42%に達している。
一方、子供たちは進学・就職とともにこの地区を離れたため、人口は最盛期の6割に。東京全体の高齢化率が約24%であることを考えると、高島平は東京で「最も枯れた町」の一つとなっているのだ。
集まった3538通の「反対署名」
都心にありながら人口減と高齢化が進む高島平を変えたい―そう考えた板橋区は大胆な計画を打ち立てる。それが、’24年に発表された「高島平タワマン計画」だ。少し複雑だが、その概要を説明しよう。
都営三田線高島平駅から徒歩5分ほどのところに、現在は廃校となった旧高島第七小学校跡地と、区立図書館などが並ぶ地帯がある。
道路を挟んで向かい側には、URが管轄する高島平2丁目団地群がある。板橋区は、第七小学校一帯と2丁目団地群の33街区分を等価交換。その後、URが第七小学校一帯に高さ110メートルのタワマンを建設する。板橋区は、現在は第七小学校周辺にある図書館などの施設を、URと等価交換した場所に移転するという計画だ。
個人向け不動産コンサル・さくら事務所の山本直彌取締役副社長が解説する。
「全国で70万戸以上の賃貸住宅を管理するURですが、特に高度経済成長期に建てられた団地の建て替えは長年の課題となっています。健全な運営を続けるためにも収益性を高めていくことは必須。現在、URが管轄する高島平の団地の家賃は3DKでも12万円を超えない設定ですが、この一部をタワマンにして、人の流れを変え、街が活性化することで賃料を上げることも狙いの一つです。
板橋区としてもタワマンが建てば若年層の流入が期待できます。合わせて周辺の施設や店舗なども新しくなり、高島平の若返りを図れる。板橋区とURの利害は一致しているわけです」
板橋区は今年度中に建設計画の始動を予定しているが、この再生計画に住民が反発、3538通もの「反対署名」が区に提出されたのだ。
反対の理由は大きく二つある。
後編記事『「東洋一のマンモス団地」高島平で急遽浮上したタワマン建設計画に戸惑う住民・喜ぶ住民の賛否両論』へ続く。
「週刊現代」2025年6月23日号より