2022年10月1日、79歳で亡くなったアントニオ猪木。今なお熱烈なファンを擁する猪木だが、世に喧伝されるそのイメージは二重三重の皮膜に包まれてきた。
話題の新刊『兄 私だけが知るアントニオ猪木』(講談社刊)は、猪木家の末弟である啓介氏から見た、5歳年上の兄・猪木寛至の「人間の記録」だ。ブラジルへの移民、力道山との出会い、新日本プロレス、政治と事業、4度にわたる結婚、そして晩年の兄弟断絶と闘病。70年余に及んだ兄弟の歴史がすべて記されている。
2018年、猪木は全身性アミロイドーシスという心臓機能を低下させる難病を発症した。最後の妻である橋本田鶴子氏は翌2019年に死去したが、自身のマネジメントスタッフに猪木の介護を続けるよう厳命し、実弟である啓介氏さえ自由に会うことは許されなかった。
そんななか、啓介氏のもとに猪木から一本の電話がかかってくる。「ここから出してくれ――」その悲痛なSOSを受け取った啓介氏は、兄を救うべく奔走する。
『兄 私だけが知るアントニオ猪木』(第30回)
「俺はここを出たいんだ。何とか早く出してくれ!」
オークラで兄貴と約束を交わしてから4ヵ月ほどが経過した、夏の日のことだった。車を運転中だった私に着信があった。ディスプレイに、見慣れた電話番号が示されている。
「兄貴からだ」
運転中だった私は通話をスピーカーホンに切り替え、同乗していた湯川会長にも会話を聞いてもらえるようにした。
「兄貴、いま運転中だ。話はできる。横に会長もいる」
すると、いつになく切迫した声で兄貴が叫んだ。
「啓介、俺はここを出たいんだ。何とか早く出してくれ!」
私と湯川会長は、その悲痛な声を聞いて唇をかみしめた。
「兄貴、分かった。待ってくれとは言わない。ちょうど、物件も見つかったところだ。早くそこを出よう」
ちょうどそのころ、私の自宅から歩いて5分ほどの場所にある物件が、有力な候補として浮上していた。白金台のタワーマンション最上階。広々とした室内からは富士山も眺望できる、最高の立地だ。物件を紹介してくれたのは80年代に旗揚げされた「ジャパンプロレス」元会長の竹田勝司さんである。
「空白の10年」からの脱出
私と湯川会長は、物件を見て即決した。この場所なら、何かあったときでもすぐに駆けつけることができる。問題は、橋本一派がすんなり兄貴を引き渡すかどうかだったが、「兄貴の強い意向」を主張すると、意外にもあっさり引き下がった。正直なところ、これ以上兄貴の介護を続けるのも負担になっていたはずである。
兄貴が、湯川会長の用意した白金台のマンションに移ったのは8月2日のことだった。この日をもって、アントニオ猪木は橋本さんの作り上げた世界から完全に脱出し、自由になった。
それまで兄貴のマネージャーを名乗っていた人物は一切の業務から手を引くことになり、介護スタッフも刷新された。私が待ちわびていた日である。
車イスに乗せられた兄貴は当初、腕をひじ掛けに上げることさえできないほど衰弱していたが、タワーマンション38階の部屋に移るなり、300グラムのステーキを平らげて私たちを驚かせた。
少し生気を取り戻した兄貴の顔を見たとき、不意に悔しさが襲ってきた。
「なぜ、もう少し早く兄貴を解放してくれなかったのか」
橋本さんという1人の女性によって奪われた「空白の10年」――それはもう、取り戻すことはできないのである。
湯川会長は、新たに「猪木元気工場」という名のマネジメント会社を立ち上げた。略すと、かつての団体「IGF」とまったく同じになる。スタッフの陣容も、プロレス・格闘技団体のIGFを支えた面々とおおむね同じだった。
最後まで寂しがり屋だった
8月28日、兄貴は日本テレビの『24時間テレビ』に出演している。本来は出られるような体調ではなく、実際、当日の朝の段階では出演しないということになっていた。
このとき、テレビ局との折衝を担当していたIGFのマネージャーは非常に困っていた。登場予定だったアントニオ猪木が収録をドタキャンすれば、不可抗力であるにせよ、期待していた関係者には顔向けができなくなる。
「兄貴、無理なのかい」
私が声をかけると、何も言わない。こういうときはだいたい、無理じゃない。
「無理することはない」
そう言えば、逆に出ようとするのだ。結局兄貴は、スタジオに行くと言い出した。急転直下の展開に、いちばんほっとしていたのはマネージャーだったはずだ。
白金台のマンションに引っ越してからというもの、私は毎日、兄貴のもとを訪れた。「毎日のように」とか「ほぼ毎日」ではない。亡くなるまでの2ヵ月間、全日出動だ。今日は来てくれるのか、などという丁寧な電話はかかってこない。
「おい、今日は何時に来るんだよ」
来るのが当然だろう、といったもの言いである。アントニオ猪木の弟も楽じゃないが、「人間・猪木寛至」の最終章を見届ける役割は、私の使命なのだという思いもあった。
私たちは、兄貴を訪ねてやってくる人たちを歓迎し、できるだけ交流を実現させて、兄貴の孤独を解消するようにつとめた。
兄貴は、自分を古くから知る友人たちによく電話をかけていた。旗揚げメンバーの藤波さんや、猪木プロレスの理解者だった作家の村松友視さん、アメリカにいる寛子さん……いまさら特段の用事もないが、人生の終焉が近づいていることを、兄貴なりに感じていたのだろう。ときには電話をしている間にそのまま意識が薄れ、寝てしまうこともあった。
最後まで、寂しがり屋な兄貴だった。