原千晶さん、30歳の出来事
「およそ50年間生きてきて、一番苦しかったのが30歳のときでした」
そう語るのは、女優の原千晶さんだ。原さんは、今から21年前(2004年)、30歳のときに子宮頸がんが判明。子宮頸がんへの知識がまったくない中での告知に大きく心が乱れたといいます。
「当時は、恋愛も仕事も煮詰まっていて多くの悩みを抱えていた時期でもありました。その状況で子宮頸がんと告知されてしまって。ステージはⅠA1期で比較的初期だったものの、がんの性質が気になる点、再発や転移を未然に防ぐために、今の段階で、単純子宮摘術(※1)という方法で子宮を全部取ることを勧めると、医師から告げられました」
一度は子宮全摘出の決断をするも手術までの1ヵ月の間に、将来子どもを持つことをあきらめたくなかった千晶さんは、心が大きく揺れ動きある決断をします。手術の前日に、「子宮を摘出しない」「手術をキャンセルする」という選択をしたのです。
今回、同じ時期にがんを経験したことがきっかけで知り合って以来、親交を深めてきた乳がんサバイバーで美容ジャーナリストの山崎多賀子さんが原さんを取材。がんサバイバー同士、友人として、原さんも様々な本音を包み隠さず語ってくださいました。
第2回前編では、子宮全摘の手術をキャンセルしたいきさつと、その後の出来事について前後編でお伝えします。
周囲は猛反対だったけれど……
――医師から子宮を全摘したほうがいいと強く勧められても、将来子どもを持つことをあきらめたくなかった千晶さんは、子宮を摘出しない選択をしたのですよね。
千晶さんのご両親はその決断に賛成してくれたのでしょうか。
原千晶さん(以下、千晶):両親は「命を何よりも優先してほしい。手術を受けてくれ」と、大反対しました。以前大腸がんを経験していた父は、私よりもがんに対する知識も覚悟も持っていたからなのか、「孫の顔を見せなくては、と思わないでいいから」、とまで言ってくれました。でも、あのときの私の意思があまりにも固くて、仕方なく尊重してくれたかんじでした。
主治医に「子宮をどうしても残したい」と伝えると、「月に一度、必ず検査に来ること」という条件でしぶしぶ了承してくれました。私はといえば、子宮を取らずに済んだことに心からホッとしていました。
そして、当時お付き合いしていた方とはその後、病気とは関係がない理由でお別れしました。病気は直接的な理由ではありませんでしたが、人生の大きな岐路ともいえる決断を相談できない相手であったこと=私とは縁がなかった相手だったということだと思います。
――それからは毎月検診に通ったのですね。
千晶:そこから2年半くらいは毎月きちんと通院していました。そして、ずっと「異常なし」の状態が続きました。私にしたら2005年2月に受けた円錐切除術(※2)そのものが、子宮頸がん治療と解釈していました。治療でがんは全部取り除いたのだろうから、異常も出ないし、もう検査に行かなくても大丈夫なんじゃない!?と思うようになり、次第に病院から足が遠のいてしまったんです。
子宮頸がんの治癒は治療開始から5年後がひとつの目安であるというようなことを何かの資料で読んでいたので、自分で勝手に2010年の2月をがん卒業のゴールに設定して、何も起こりませんようにと祈りながら過ごしました。
「放っておいたら死にますよ」
――ところが、5年目になる直前に異変が起こったのですね。
千晶:はい。5年目まであと3ヵ月という2009年12月、急激に具合が悪くなったんです。この世のものとは思えないお腹と腰の痛みで鎮痛剤も効かないんです。
そのときばかりは、自分自身でも「きっとがんが原因だ」とわかり、「ああ、逃げきれなかったんだ」と思いました。
ただ、勝手に通院をやめてしまった病院へはさすがに行けなくて……。不正出血やおりものの変化があった際に友だちが予約してくれ最初に受診した婦人科のクリニックに駆け込んだんです。すぐに応急処置をしてくれた医師に、今までの経緯を説明し、5年前に紹介していただいた大学病院に2年半くらい前から行っていないことを告げると、すごくびっくりしながらも、「行きにくいのなら、別の病院を紹介します」と紹介状を書いてくださって。その2日後にがん専門の病院を受診しました。
初めて行った病院の婦人科の医師は、内診をしながら開口一番、「うわっ、まずいね」、「これ、手術できるかな」とつぶやくんです。それを聞いた私は恐怖で震えが止まらず、涙で顔がぐちゃぐちゃになりました。
診察が終わったあとの「よくこんなになるまで放っておいたね」という痛烈な一言に、私は返す言葉もなくうなだれながら、勇気を振り絞って「がんですか?」と聞くと、「がんですよ。かなり進行しています」とキッパリ言われました。
やっぱり……、と思いました。私はいよいよ観念し、「もう子宮を取ります」と医師に伝えると、なにを言っているの? という表情で「子宮を取るだけでは済まないですよ。このまま放っておいたら死にますよ。手術の後は抗がん剤治療をすることになります」と言われました。
ずっと情報を遮断してきた私は、この期に及んでも「子宮を取れば終わるんだ」と、まだ思っていたんです。そして、約5年前に「今なら、子宮を取るだけで済みます」と言った元主治医の言葉をようやく理解しました。
急いで検査をした結果、「最初子宮頸部の扁平上皮にあったがんが広がって、しかも悪性度の高い腺がん(※3)が、子宮の入り口を覆いつくしている。おそらくリンパ節にも転移している。もしほかの臓器にも転移していたら、手術もできない」と一気に言われました。
元主治医の忘れられない言葉
――それまで前兆というか、自覚症状はなかったのですか?
千晶:思い返せばですが、その年の夏を過ぎた頃にまた生理の出血量が増えたり、生理のときお腹だけでなく腰も痛くて、水みたいな透明なおりものが出ることもあって、あれ? と思っていました。これまでがんの情報に一切蓋をしてきた私でもさすがに「もしかしたらがんが再発したのかも」と頭をよぎったのですが、そう考えるのも怖くて……。できるだけ見ないようにしていました。クリニックに飛び込んだ日は、生理から2日目で、七転八倒するなか、なんとか自分で運転していきました。
――その後の治療はどうなりましたか?
千晶:医師は、「とにかく急いで手術をしましょう、今の段階なら手術できると思う」と言ってくださいました。ただそのためには、以前通っていた月に1度の定期検査をやめてしまった大学病院のカルテが必要だと……。今さら元の主治医に合わせる顔はありませんが、背に腹は代えられず、その日の夕方に元主治医に電話をすると、「すぐに来なさい」と言ってくださって。
カルテを受け取ってくるだけのつもりだったのですが、私の顔を見るなり元主治医は、「診察します」と言ったのです。
診察台に乗って診察を受けた瞬間、毎月通院していた2年半が思いだされ、「診ていただいていたとき、安心だったな」と……。「この先生の元に戻りたい」と思ってしまったんです。「勝手に通院をやめて先生を裏切って、こんなことになって」と涙ながらに先生に謝って気持ちを伝えると、苦笑いしながらも、「戻ってきなさい」と言ってくださいました。
そのあと、「原さん大丈夫、ぜったいに助けるから」と言ってくれた言葉は、その後もずっと、私のお守りになっています。
治療前の精密検査の結果、子宮体部にもがんが見つかりました。検査をしていない期間に子宮体がんができて、それが子宮頸部にまで広がっている状態だということがわかりました。リンパ節にも転移があるステージⅢC。治療方針は、前のがん専門の病院の医師と同じ見解でした。
原千晶さん
北海道帯広市生まれ。1994年に芸能界デビュー、TVや雑誌などに、ドラマ、バラエティーでのMCなどマルチに活動。30歳で子宮頸がん、その後35歳のときに再び子宮体部と頸部にがんが見つかり、広汎子宮全摘出術と抗がん剤治療を行った。2011年7月に婦人科がんの患者会『よつばの会』を設立し活動している。よつばの会https://www.yotsuba-kai.com/
※1:単純子宮摘術
最も狭い範囲を切除する方法で、開腹して子宮と両側の付属器(卵巣・卵管)を摘出します。腟壁の一部を切除することもあります。手術の前の診断で、腟や子宮の周りの組織にがんがなく、子宮体部にとどまっていると推定される場合に行います。類内膜がんのグレード1またはグレード2で、術前にⅠA期と推定される場合には、リンパ節への転移の可能性がとても低いため、リンパ節郭清を行わないこともあります。子宮と卵巣・卵管を摘出するため、妊娠することはできなくなりますが、性交渉は可能です。
※2:円錐切除術
子宮頸部の一部を円錐状に切除し、病理組織学的に病変の広がりを詳しく調べます。CIN3(前がん病変)に対しては、病変を完全に取り切る治療として行います。子宮の多くの部分を残すことができますが、その後の妊娠や出産に影響が出る場合もあります。
※3:子宮頸がんの種類(組織型)
子宮頸がんは、顕微鏡下でのがん組織の見え方によって、いくつかの組織型に分類されます。主な組織型としては、扁平上皮がんと腺がんがあげられます。扁平上皮がんが全体の8割程度、腺がんが2割程度を占めます。
すべて出典/国立がん研究センターがん情報サービス「子宮体がん(子宮内膜がん) 治療」より