知られざる「歯科衛生士」の世界
国家資格を持つ専門職である「歯科衛生士」。行きつけの歯科クリニックで、お世話になっている人も多くいるだろう。5月31日、都内に多くの歯科衛生士が集まって、麻酔を打つ講習会が開かれた。
「なぜ歯科衛生士が麻酔を…?」と思う人がいるかもしれない。歯医者での麻酔は、原則的に歯科医師が打つからだ。この講習会には、長年の慣習を打ち破る取り組みがあった。
国家資格において歯科衛生士は、法的に「歯科医師の診療を補助するとともに、歯科医師の指示を受けて歯科治療の一部を担当する」と定められている。
しかし、その歯科衛生士が、実は麻酔を打てるということはほとんど知られていない。戦後まもなく、昭和23年に歯科衛生士法が制定された際、医師や歯科医師の指示のもとでの局所麻酔の実施は認められていた。ただ、法解釈の曖昧さや教育体制の不十分さによって、長らく「歯科衛生士は麻酔を打つことはできない」という誤解が歯科業界に浸透し、実際に現場では行われてこなかったのだという。
「歯科医師の中にでさえ、衛生士が麻酔を打つことなんてできないと思い込んでいる人が少なからずいます。全てを歯科医師がやるものだという慣例が長く続いていて、法的には可能でも実施しようとしてこなかったのが実態です」(ベテランの歯科医師)
超高齢化社会を迎えて「役割」が変わった
背景には、本来は専門的な知識を持った国家資格者であるにもかかわらず、現場では歯科衛生士はあくまで「歯科医師の手伝い」だという意識が強いことがあるようだ。
歯科衛生士からは「クリニックによっては、人手が足りないとして、資格がなくてもできる歯科助手と同じように、受付や雑用のようなことをさせられることもあります。歯科の場合は個人経営のところが多く、歯科医によって意識や考え方に大きな差があります。もっと専門的なことをしたいと思っても、なかなかできないのが現状です」(都内の20代歯科衛生士)との声も上がる。
ただ、超高齢化社会を迎え、特に歯周病など口腔内の管理が健康の維持においては極めて重要であるということが、広く知られるようになってきた。歯周病は高齢者が歯を喪失する一番の原因となっているが、症状が進行すると噛む機能が低下し、単に栄養の低下などだけでなく、認知症も含めた全身の疾患リスクが高まることが最新の研究で明らかになっている。
それに伴って歯科治療は年々高度化し、歯科衛生士の役割は単に「歯科医師の手伝い」的な仕事では不十分で、専門知識を生かした患者へのきめ細かな対応が期待されるようになっているというわけである。
衛生士同士が麻酔を打ちあう
こうした状況の中、国も徐々に動き出している。厚生労働省は2024年に「歯科衛生士の業務のあり方等に関する検討会」を設置。翌2025年6月には歯科衛生士による麻酔行為に関する新たな指針を公表した。つまり、指針に則った研修をきちんと受ければ、歯科衛生士が一定の条件のもとで局所麻酔を行うことができるということが明確に示されたのだ。
5月31日(日)、東京・渋谷区で歯科衛生士を対象にした麻酔の講習会が開かれた。主催したのは一般社団法人「国際歯科医療協会」(IDMA)で、20人あまりの歯科衛生士のほか、麻酔の専門知識を持った講師役の歯科医師なども多数参加。まずは歯の模型で手順を確認したあと、実際に衛生士同士がペアになって注射器で麻酔を打ち合う実習が行われた。
ここでの麻酔は、主に歯周病の治療や歯石の除去などの際に痛みを和らげるために行われる「浸潤麻酔」というものである。歯の周りの歯肉や粘膜に麻酔薬を注射し神経を一時的に麻痺させるもので、クリニックでは頻繁に行われているが、治療の現場では歯科医師が担当することがほとんどだ。
麻酔薬が正しく作用させるためには、適切な角度と深さで注射針を刺すことが重要だといい、それなりに習熟が必要になる。この日、衛生士たちは経験豊富な歯科医師のアドバイスを受けながら細かい手順を確認していた。一人一人が、麻酔を「打つ」「受ける」の両方を体験することで、患者の緊張や不安を実体験として理解できるようになるという。
歯科衛生士の地位向上や待遇アップも……
こうした相互実習は全国的にもまだまだ珍しいというが、実際の人体に麻酔を行うことで、注射の感触や薬液の反応といった、模型では得られない感覚を習得できる。
ただ、歯科医師の監督下で実施するとはいえ、歯科治療の現場で麻酔を打つということは責任が伴うし、何といっても安全性の担保が最重要となる。通常の治療以上に患者の様子を観察して把握し、体調などに異常が出れば速やかに対応できるようにしなければならない。このため講習会では、患者の体調の急変が起きた時に備えて、AEDを使った蘇生術など、緊急時の対処方法なども学んでいた。
参加した30代の歯科衛生士は、「歯科医師だけしか麻酔を打てない状況だと、治療の間に患者さんを待たせてしまうこともある。スキルアップをして、実際に勤務先でも自分で局所麻酔ができるようにしたい。今回、細かいコツなども教えてもらったので参加して非常によかったと思う」と話していた。
主催したIDMAでは、単に麻酔の技術が習得できるという点だけでなく、歯科衛生士の地位向上や待遇アップにもつながるのではないかと期待している。歯科治療の現場で麻酔を使える衛生士は、高度な人材としてより良い条件で働くチャンスも増えることが予想されるからだ。
長谷川悠子代表理事は、「歯科衛生士の可能性をもっともっと広げていきたい。歯科医師が全てを行っている現在の状況だと負担も偏ってしまう。専門知識がある衛生士とチームを組むことで歯科医師自身は診療に集中でき、結果として患者さんに良いものを提供できる。ただ、まだまだ体系的に学ぶ機会が不足しており、全国での講習会開催を進めてより多くの歯科衛生士を支援していきたい」と話す。
歯科衛生士の役割は、大きな転換点を迎えていると言えるだろう。
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