東京ドームに5万5千人の大観衆を集めて行われた、日本人選手同士による空前絶後のタイトルマッチ「THE DAY」に3対0の判定勝ちを収めた井上尚弥。この勝利により、世界で最も権威あるボクシング雑誌「The Ring」のパウンド・フォー・パウンド・ランキングで2年ぶりに1位に復帰した。はたして井上陣営の眼に戦いはどのように映っていたのか。父にしてトレーナー井上真吾氏に話を聞いた。
「東京ドーム」「中谷選手」へのプレッシャー
——今回は尚弥さん、拓真さん、お二人とも素晴らしい試合でした。いいゴールデンウィークの後半戦をお過ごしになられているのではないでしょうか。
真吾:ずっと張り詰めていたものが解けて、安堵感に浸っているというのが正直なところです。あんまり行動はしたくない。ずうっとぼーっとしています。
——今回は東京ドーム開催で5万5千人のチケットはソールドアウト。そういうプレッシャーはありました?
真吾:プレッシャーは、どの試合の前でもいっしょです。試合に「絶対」はないので。万全に練習で仕上げてきたと思っていても、いざ試合直前となると、いろんな思いが入り交じって不安になる。「東京ドームだから」という特別なプレッシャーではなかったです。
——では対戦相手の中谷選手に対してはどうでしょう? 中谷選手もPFP(パウンド・フォー・パウンド)にランクされている強敵です(井上尚弥が2位、中谷潤人が6位)。相手が中谷選手であることでの特別なプレッシャーは?
真吾:それも、どの試合も一緒です。毎試合、毎試合、対戦相手のプレッシャーはありますから。
——いつも真吾さんが行っていらっしゃる対戦相手の戦前での分析ですが、中谷選手に関してはどう見ていらっしゃったのでしょうか?
真吾:尚弥のほうが勝っているとは思っていました。その上に立って、練習でもすべてやりたいことができたので、試合前には「間違いなく行けるよね」という自信はありました。
尚が適切に対応すれば問題なく勝てる、という。
1ラウンド目からプレッシャーの掛け合いで勝ってた
——中谷選手は長身で、かつスタンスを広く取って重心を低く構えます。したがって懐が深く、対戦相手はパンチが届きにくい。そこへの対処はどのように考えていらっしゃったのですか?
真吾:尚弥の出入りのスピードです。そこで見切ってこなせれば、間違いなくパンチは届くというイメージはありました。
実際、試合でもその通りになりました。ステップインする尚のパンチは届いてる、相手のリターンはバックステップでかわせてる。それで「あ、練習通りになってるな」と思いました。
また仮に、ラフファイトみたいに中谷選手が距離を縮めて出てきたら、逆に尚のほうが中に入る。相手が外側から打ち込んでくるパンチにはガートを固めて対処して、こちらは内側から返すというプランも立てていました。
自分の中のイメージでは、西田選手(中谷選手のバンタム級の王座統一戦の相手だった西田凌佑選手。6回終了TKOで中谷選手の勝利)の時のように距離を詰めてきたらこういう対処、中間距離だったらこう、そして脚を使った場合にはこうと、戦う距離によって3パターンでの戦い方をイメージしていました。だから仮に中谷選手が違う戦い方できていたとしても、対処はできたと思います。
——試合前の記者会見で「空間を支配する」とおっしゃっていたのはそういうことだったのですね。では、中谷選手のこわいパンチはどれと見ていらしたのでしょうか?
真吾:尚弥の入り際に左をストレートやアッパーで合わせてくる。その左の2つのパンチを一番警戒してました。
試合自体としては、自分が想定していたとおりの始まり方になりました。むしろ、「こういう戦い方をしてくれるんだったら、尚には一番いいよね」と思ってた。中間距離での戦いは尚弥が一番得意にしている戦い方なので、第1ラウンドの時点で「このままで行ってくれたらそれで行けるな」という感触はすでにありました。
ですから第1ラウンドが終わったときには「そのままでいいよ」「ただ入り際や、相手の左は気をつけてね」と言いました。
——試合後のインタビューで中谷選手は、尚弥さんはボクシングIQが高いので、最初から得意のパンチを出すと学ばれ対処されてしまう。それで中盤まで強いパンチは出さないようにとルディー・エルナンデストレーナーから指示されていたとおっしゃっていましたが?
真吾:でもそれは、尚のプレッシャーで入って来れなかっただけだったんじゃないでしょうか。仮に尚のプレッシャーを感じないんだったら、どんどん入ってくればいいはずです。パンチを当てられるわけですから。それができなかったんですよ。作戦じゃなくて、単にできなかったんじゃないのかなと自分なんかは思います。
実際、中谷選手は何度も圧を掛けようとしていました。でもそのたびに尚弥がそれを跳ね返していましたから。
第8ラウンドに攻勢に出てきたのも、それまでポイントを取りたくても取れなかったので、「このままじゃ負ける、もう行くしかない」ということだったのでしょう。
つまり1ラウンド目から尚がプレッシャーの掛け合いで勝ってたから、ああいう展開になったんです。
どう来られても対応できるプランはあった
——少なくとも第4ラウンドまでは、ジャッジも全員尚弥さんに付けていました。真吾さんの見立てでも、ここまでは陣営のもくろみ通りに進んでいた?
真吾:そうですね。お互い有効打は少なかったですが、その中でもヒット数は尚弥のほうが多いよねって思っていました。なので安心して見てました。
たしかに、完璧に試合を支配していたとは言えません。でも、若干、尚弥が抜けだしていた。
——中谷選手のパンチ力はどうでしたか。
真吾:試合中は「大丈夫」と言っていました。試合後に「どうだった?」と聞いたときにも、「大丈夫だったよ。後半も、逆に行っちゃおうかなと思ってたんだよねー」と言っていました。ただ、まともなパンチをもらっていなかっただけで、実際に食ったらどうなるかはわからない。だから無理はしないで当初のプラン通りに進めたんです。
——右目の下が少し腫れていましたが?
真吾:あれも、特にダメージはなかったです。まあ、殴り合いですから。それに相手が中谷選手ですから、まったく打たれないなんてことはないですよ。たしかに「危ない」と思ったパンチもありましたし。
——第5ラウンドは、それまでのラウンドよりも少し間合いが近くなり、パンチの交換も多くなりました。
真吾:それは中谷選手のほうが圧を掛けてきたからです。それに対して尚弥も打ち返したので距離が縮まったんです。でも、それも想定内でした。
——続く8から10ラウンドについて試合後の記者会見で尚弥さんが「ここのあたりは少し流した」とおっしゃっていましたが?
真吾:流すというか、少しセーブしたということだったんじゃないでしょうか。中谷選手がこのままではまずいと攻勢を強めてきたときに、「じゃあここは少して休んでもいいかな」と考えたんじゃないのかなと。
打ち合いに応じるんじゃなく、受け流すといいますか。
ただ、尚はその会見では「ポイントを譲ってもいい」と言っていましたが、自分は「ポイントは取られないようにしようね」と言いました。
——攻め込まれてまずいという感覚はなかった?
真吾:(すかさず)ないですね。相手が攻め込んでくるのであれば、打ち終わりにアッパーを返そうよとか、対策も伝えていましたし。
——そして第10ラウンド、バッティングでの中断がありました。あのラウンド、序盤は中谷選手が攻勢でしたが、後半は逆に尚弥さんが打ち勝ったように見えました。
真吾:向こうが攻めてきたら、相手の一方的なペースになる。だからそれは止めなければならない。こちらが押し返さなければならない。そのやりあいの中で、ああいう展開になったんです。
——ということは、試合全般を通して、私たちが端で見ているよりも井上陣営には余裕があった?
真吾:余裕というわけではないですが、あのように来られても対応できるプランはあったんで。だとすれば、慌てる必要はないですから。
(2026年5月5日電話インタビュー。聞き手:講談社現代新書編集部)
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【後編】〈「いま、やめたっていい」…「キャリア集大成」に向かう、井上尚弥の今後とは?——父にしてトレーナー井上真吾氏が語る、東京ドーム「THE DAY」の真相〉へ続く