作家・重松清さんが、「言葉の職人のプロ中のプロ」として、一人の人間として、「言葉」について考えていく連載「伝わる言葉を求めて」。
第3回となる今回は、重松さんがこれまでの大学の授業などで問うてきた、「言葉の精度」を高めるためのいくつかの質問を紹介していきます。
表現に騙されない読者になる
僕は学生時代から編集者やライターとして出版の世界にいた。キャリアは40年を超えていることになる。
一方で、そのキャリアのけっこうな部分を、並行して教室でも過ごしてきた。
センセイ、だったのである。
音楽ライターだった24歳のとき、思うところあってニュータウンの進学塾で中学受験用の国語と算数を2年間教えたのを皮切りに、30代には日本ジャーナリスト専門学校と早稲田大学第二文学部の非常勤講師をつごう4年間、そして53歳から63歳までの10年間(つまり、この連載を始める直前まで)は、早稲田大学文化構想学部の任期付き教授として教壇に立っていたのだ。
通算16年。塾の仕事をはずしても14年。担当した演習やゼミは、雑誌ライティング、ノンフィクション表現、小説表現、ジャーナリズム論、大衆文学論、現代文芸講義……要するに「言葉」についてのものばかりだった。
むろん、僕は研究者ではなく、大学院というアカデミックなルートの出身でもないので、知識も教養も致命的に欠けていて、体系立てた授業などできない。しかし、「言葉」でメシを食っているプロとしての自負はある。
そんな自分の体験に根差した「言葉」への思いを若い世代とぜひ共有したくて、「現場からは以上です」の感覚で授業を続けてきた。
最後に務めた任期付き教授の職は、そもそも3年の任期で引き受けたのだが、若い世代と向き合うことがほんとうに楽しくて、任期延長を何度も繰り返し、制度上最長の10年をまっとうした。おかげでその間は作家としては開店休業のありさまだったのだが、悔いはない。しかし逆に、もう、再び教壇に立つつもりもない。こっちだって、くたばるまでに書きたいモノはいくつもあるのだ——この連載もね。
というわけで、この連載は、教室の輪郭が消えてなくなった課外授業になるといいな、と願っている。演習で学生諸君に取り組んでもらった課題も、随時紹介するつもりである。要するに、もうちょっとだけ先生ヅラしたいんですよ、ごめんね。
さて、前回は、すでに手元にある色と色とを混ぜて新しい色をつくる話をした。言うでもなく、この場合の「色」は「言葉」の比喩なのだが、もう少しこの比喩を用いて話を進めたい。
早稲田で担当していた演習の一つに、ノンフィクション表現がある。
フィクション(創作)なら、表現は絶対的に必要なもの、というか、その表現こそが作品のキモになる。だが、事実に基づいて記述するノンフィクションでは、表現は必要なのか。必要だとすれば、どういう形なら事実(客観)と表現(主観)は共存できるのか。そんな議論をして、さらに「釣り」タイトルの手口やプロパガンダの歴史を学んだりすることで、善意の衣をかぶった表現に騙されない読者になろうぜ、という演習なのだ。
全14回の授業の終盤に、「言葉の精度を高めよう」という狙いの回がある。その授業のウォーミングアップに、毎年「色」の比喩を使ってきた。
ちょっと再現してみよう。
「言葉の境界線」を意識してほしい
バラ売りの色鉛筆やプロ仕様の多色セットを扱っている大きな画材店に行くと、「色」の多さに圧倒される。「言葉」に置き換えれば、国語辞典の分厚さのようなものだ。
〈黄緑〉を探してみると、文字どおりの〈イエローグリーン〉だけではなく、その周辺には〈ネオングリーン〉や〈ライム〉〈シークレスト〉〈モスグリーン〉……いわば〈ざっくり黄緑〉がたくさんある。
そんな〈ざっくり黄緑〉の色鉛筆を、〈緑〉と〈黄〉の間を埋めるように集め、グラデーションをつくって並べてみる。
それを学生の皆さんに見せて、〈ざっくり黄緑〉の幅広さを実感してもらい、「ここから先は〈ざっくり黄緑〉ではなくて〈緑〉だろう」「ここから先は〈黄〉だろう」という境界線を決めていく。
すると、微妙なところでズレが生じる。同じ〈ざっくり黄緑〉の中でも、人によって「これはもう〈緑〉だ」「これはまだ〈ざっくり黄緑〉だ」という違いが出てしまうのだ。
言葉だって同じだ。「ざっくり」の真ん中あたりの捉え方はみんな共通していても、端になると、ズレてしまう。
「正義」でも「悪」でもいいのだが、幅の広い言葉は、境界線が曖昧になり、恣意的に境界線を動かすことだってできる。そこが、怖い。
たとえほとんどの人が「ここから先は正義じゃない」と思っていても、権力者が「いや、これもまだ正義だ」と言い張って、さらに境界線をどんどん勝手に広げていくと、世界はどうなるか……最近の海外ニュースを観ればよくわかる。
「平和」も、そう。『広辞苑』によると、「平和」とは「①やすらかにやわらぐこと②戦争がなくて世が安穏であること」——「オレさまに逆らう奴はボコボコにしてやったから、戦争はもう起きないぜ、イェイ!」という状態では決してないのだ。
若い世代には、言葉の境界線を意識してほしい。知らぬうちに境界線が勝手に動かされてしまわないよう、警戒してほしい。そのためには、一つひとつの言葉を漫然と使うのではなく——色の比喩に戻れば、「この色は、ここからここまで」「これを描くには、この色しかない」というのを、しっかりと持っていなくてはならない。いわば、言葉の精度を鍛えて、磨いて、高めてほしいのだ。
そのためのレッスンとして演習で取り組んでもらった課題の中から、間口が広く、ゲーム感覚でやわらかく発想できそうなものをピックアップして紹介する。
【問1 微熱と高熱の違いは?】
これを「37℃台が微熱で38℃を超えると高熱」というのでは、表現にならない。数字に置き換えるのではなく、流行りの言い方をすれば「言語化」してほしいのだ。
もう1問、出しておこう。
【問2 遠距離恋愛の定義は?】
「新幹線や飛行機を使わないと会えない距離」というのでは面白くない。観念的な定義付けよりも、「こんな状況のときに、こうなるのが遠距離恋愛」と考えたほうが浮かびやすいかもしれない。
さらにもう1問、これは早稲田ではなく、専門学校時代の課題なので、30年以上前に出題したものである。
【問3 「沸騰」という言葉をまだ知らない留学生に、袋麺のつくり方(お湯が沸騰したら麺を入れる)を説明してください】
問1と同様に、「温度計を入れて100℃だったら……」ではNG。
教室では、4人一組のグループになって考えてもらった。所要時間は2、3分といったところだ(他の課題もたくさんあるからね)。
さて、あなたなら、どうする——?
「沸騰」を伸びやかに言語化した学生
もちろん、この課題に「正解」はない。裏返せば「誤答」もない。100人いれば100個の解答があっていいし、そうでなくては面白くない。
いまからお伝えするのも、あくまでも解答例。正解ではないし、模範解答というわけでもない。ただ、こういう発想で言葉を捉え直してみると面白いかもしれませんよ、とはお伝えしておきたいのだ。
【問1 微熱と高熱の違いは?】
解答例「熱があってもシゲマツ先生の演習にはがんばって出席できるのが微熱で、それができないのが高熱」
大喜利かよ。でも、具体例に落とし込んで考えるのは、とても大切。
【問2 遠距離恋愛の定義は?】
解答例「夜中に泣きながら『会いたい』と言われても、翌日にならないと会えないのが遠距離恋愛」
これはきれいだ。座布団10枚!(まさに大喜利)言葉の境界線を考えるときには、「できる/できない」で発想するといいと思う。
……実際の授業では、あくまでもこれらの問いはウォーミングアップで、アタマとココロをほぐしたあとで、しっかりとした議論へと入っていくのが常だった(はずだ)。
だが、笑えることと、いいかげんなこととは違う。言葉を鍛えるときは、締めつけてはいけない。むしろふだんよりもゆるめて、伸びやかに発想しないと、言葉は窮屈になり、萎縮してしまう。
それを確信したのが、【問3 「沸騰」という言葉をまだ知らない留学生に、袋麺のつくり方(お湯が沸騰したら麺を入れる)を説明してください】を出題したとき。
当時の僕はまだ30歳になったばかりで、よく言えばハタチ前後の学生と歳の近い兄ちゃんだったが、正直に打ち明けると、オトナの余裕もなく、いつも「ナメられてるんじゃないか?」とドキドキしながら教壇に立っていた。そうなると、発想の幅も狭くなってしまう。課題の解答も、お湯の状態(ゴボゴボと泡が出る、とか)を伝えるものが来るんだろうな、と勝手に予想していたのだ。
ところが、学生の1人が手を挙げて答えたのは——。
「鍋の真上を覗き込んで、メガネが湯気で0.5秒で曇ったら、麺を入れてください」
予想の斜め上を行く解答に、戸惑いながら僕は訊いたのだ。
「1秒じゃダメなのか?」
すると、学生はきっぱりと「1秒だと、まだ温度が80度です」と返した。
「0.1秒だと、どうなんだ?」
「沸騰しすぎです! ヤケドするから危険です!」
テキトーなことを、ひたすら真面目に言い切るのだ。
まいった。負けた。30歳のシゲマツ先生は、頭上に両手を掲げ、パチパチッと拍手喝采するしかなかった。
じつを言うと、その解答を発表した学生の顔や名前は覚えていない。もっと正直に言えば性別さえも。もう33年前のことなのだ。
だが、その学生が出してくれた解答の伸びやかさは、大げさでもなんでもなく、33年後の、63歳の僕の胸にある「言葉とはなにか」の原点の一つになっている。そして、その後早稲田の教壇に立ったときの基本的な姿勢をつくってくれたのも、彼(か彼女)の解答だったのだ。
真面目に、でも気楽にやろう。言葉とは長い長い付き合いになるのだから、力んでいると疲れるぜ。
ほんとうに大切な教えを示してもらった。心から思う。
気楽にやろうぜ、でも真剣にな——Let’s take it easy, but be serious.
これは、いまでも僕の座右の銘なのである。
「特に親しい友だち」と「親友」の違い
そんなわけで、僕は授業以外でも、電車に乗っていたり病院の待合室で順番待ちをしていたりという手持ち無沙汰なときには、よく言葉の精度を鍛える課題を自分に出して、ぼんやり考える。
けっこう暇はつぶせるし、頭の体操というか(昭和っぽい語彙だな……)、言葉との付き合いにあたってのストレッチにもなる。
演習の授業で出した課題から、またいくつか挙げておくので、興味を惹かれるものがあったら、ぜひ。
【「友だち」と「仲間」の違いは?】
【「ムカつく」と「イラっとする」の違いは?】
【「満足」と「納得」の違いは?】
(……解答例は次回にお伝えします。宿題を出すのは、教師の特権だからね)
そして、たったいま、この原稿を書きながら思いついた課題がある。
まだ自分なりの解答すら浮かんでいないのだが、せっかくなので、お伝えする。
【「特に親しい友だち」と「親友」の違いは?】
あ、ここまで書いて、解答が浮かんだ。
早いね、さすがセンセイ。
もちろん、何度でもしつこく言うけれど、それは正解でも模範解答でもない。でも、横から「間違ってるぞ」と言われたくもない。裏返せば、誰かの解答を「間違ってる」とは言わない。ただ、「オレとは違うね」「オレは好きじゃないね」とは言わせてもらうかもしれない。
では、【「特に親しい友だち」と「親友」の違いは?】についての、僕の解答を——。
「『特に親しい友だち』は、親しくなくなったら成立しないけど、『親友』は、親しくなくなったとしても成立する関係」
要するに、なかなか会えなくなっても、疎遠になっても、なんならまったく相容れない世界に分かれてしまっても、「あいつはだいじょうぶ」「あいつと自分の関係は変わらない」と信じていられる間柄が、親友。
……どうかな?
もしも今年もまだ早稲田で教壇に立っていたら、この課題【「特に親しい友だち」と「親友」の違いは?】は、絶対に授業でやったはずだ。演習の課題としてだけでなく、友だちとの関係にあれこれ悩んでいる学生の皆さんに、ぜひ考えてほしいから。
どんな答えが集まっただろうなあ……と考えていると、もう若い連中に会えないことが、ちょっと寂しくもなる。「教え子ロス」は、これからもしばらく続くのだろう。
だからこそ、この連載——教室の枠を取りはずした課外授業は、幻の読者=幻の教え子を意識しつつ続けさせてもらいたい。
33年前に「沸騰したらメガネが0.5秒で曇る!」とワケのわからない(でもサイコーに魅力的な)説を唱えた専門学校の学生も、もちろん、その幻の読者の一人である。
彼だか彼女だかわからないまま、その学生は、いまはもう50代半ばに差しかかっているのか。
幸せな人生を過ごして、ゴキゲンなおっさんかおばさんになっていると、いいな。
(第3回・了)