大阪のシンボル・大阪城を築いた豊臣秀吉。百姓の出自ながら天下統一を果たし、大阪のまちの礎を形づくったこの英傑を、大阪人は親しみを込めて「太閤さん」と呼び愛してきた。
「鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギス」の句に象徴される知略家な一面を持つ武将、派手好きでコテコテな”大阪人気質”の元祖——。そんなイメージで語られがちな秀吉だが、その人物像は、実は時代とともに少しずつ姿を変えてきた。
大阪というまちの歴史とともに揺れ動いてきた「秀吉像」とは一体何なのか。その変遷を紐解く一冊『大阪人はなぜ太閤さんが好きなのか』より一部抜粋・再編集してお届けする。
「大阪の陣」の記憶が今も息づく真田山
JR大阪環状線の玉造駅から西に向かうと、真田山と呼ばれる地区がある。徳川家康が秀吉の後継者の秀頼と戦った慶長19年(1614年)の大坂冬の陣で、秀頼方についた真田幸村が築いた出城・真田丸があったことに因む地名だ。
その真田山にある三光神社には、真田丸に籠る真田幸村が大坂城への移動のために使った抜け道とされる穴がある。実際には、真田丸を攻めた前田利常の軍が掘った塹壕の痕跡だと見られるそうだが、大坂城だけでなく城下町を巻き込んだ大規模な市街戦となった大阪冬の陣、そして夏の陣の記憶は400年以上が経ったいまもこのまちに息づく。
大坂城は真田幸村ら豊臣方の奮戦むなしく、慶長20年5月、本丸が陥落した。秀頼は北側の山里丸に逃れ、そこで母親の淀君らと自害したとされる。城の大台所から出た火は、天守閣をはじめとする建物を焼き尽くした。燃え上がる炎は夜空を焦がし、遠く京からも真っ赤に染まる大坂の空の様子が見えたという。
屏風に残る、阿鼻叫喚の世界
落城後の大坂のまちは混乱を極めた。1615年のイエズス会日本年報には、こう記録されている。
〈その夜、神の思召しであろうか、ひどい風が吹き、その風は炎をより激しく燃えたたせて火災を広範囲に広げ、炎は各方面に飛び火して敵も味方も包み込んだうえに、数多くの人々が住んでいる市全体を包み込み、数々の財産を灰燼に帰せしめた。(市の中では)逃げる者や追う者が撃つ武器の音、勝者の勝ち誇った叫び声、婦女たちの甲高い悲鳴、子供たちが絶望して泣き叫ぶ声が至るところで聞こえ、道には血が熔岩のように流れるのが見え、炎に焼かれたり、刀で切られ槍で刺された人々のうめき声があたり一面に響きわたっていた。そうして最後に、市の通りを敵や炎に追われて、まるで気が狂ったかのように慌てふためいて逃げ惑う人々の姿を眼にすることは、敗者にとって身の毛のよだつような光景だったばかりでなく、彼らに較べて、まだ自分の中に何がしかの人間性の輝きをいまだに留めている勝者に対しても同じ思いを抱かせた〉(『16.7世紀イエズス会日本報告集第2期第2巻』)
この凄まじい惨劇を伝えるものは他にもある。戦国大名の黒田家に伝わる「大坂夏の陣図屏風」だ。日本の合戦図屏風の白眉とされ、六曲一双からなる。
黒々とした天守閣が聳え立つ大坂城へ攻め寄る徳川方と防戦する豊臣方の対峙を描いた右隻は勇壮な合戦を伝えるが、この屏風を秀逸なものにしているのは、まさに大坂から落ち延びようとする人々を追う徳川方を描いた左隻である。首を狩り取り、身ぐるみを剥ぎ取り、女性を襲おうとする兵士らから懸命に逃れようともがく人々の様子はじつに生々しく、まさに阿鼻叫喚の世界。戦の恐ろしさをリアルに伝える。
大阪で長く受け継がれる秀頼の逃亡伝説
イエズス会の日本年報は、大坂の夏の陣による死者の数を10万人近くと記録している。逃げ道を求めて川へと入った多くの者が溺死したために、積み重なった死体であたかも橋の上を渡るかのように対岸に行くことができたという。
なお、秀頼には大坂城落城の際に逃げ延びたとする伝承がある。いくつかバリエーションがあるが、よく知られたものは、真田幸村に伴われて薩摩に逃れたというものだ。
「花のようなる秀頼様を 鬼のようなる真田が連れて 退きも退きたり加護島へ」
当時、大坂や京で流行ったわらべ歌だという。肥満で大男だったという秀頼を「花のよう」といい、小男だったと伝えられる真田を「鬼のよう」としているのは、願望を込めた想像の産物だからだろう。
ずっと時代が下って江戸後期の大坂の文人・上田秋成の随筆『胆大小心録』にも秀頼の逃亡伝説が登場する。そこでは、秀頼は真田幸村や後藤又兵衛、木村重成といった豊臣方の猛将らを連れて密かに薩摩に逃げたとされる。
秀頼の逃亡伝説が長く受け継がれたのは、豊臣家への同情が大坂の町人のあいだでそれだけ強かったからではないか。それは徳川への反感の裏返しでもあった。
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