マウスiPS細胞が発表されて20年。2012年の山中伸弥博士のノーベル生理学・医学賞受賞を経て、研究はついに再生医療製品の実用化へと大きく駒を進めています。
iPS細胞から作る、“ミニ臓器”であるオルガノイドや臓器チップの開発や研究を進める著者が、ここに至るまでのiPS細胞研究の歩みをわかりやすく解説し、21世紀の医療に革命を起こすであろう、再生医療や創薬の未来を紹介する書籍『iPS細胞と医療』(講談社・ブルーバックス)が、大きな注目を集めています。
そこで、ブルーバックス・ウェブサイトでは本記事シリーズで、早速この注目の書から興味深いトピックをご紹介していきます。
世界に衝撃を与えたクローンカエルの実験について、前回の記事でご紹介しましたが、そこから時を経て、ついに成功した哺乳類でのクローン生物誕生について解説します。哺乳類でのクローン生物における課題なども浮かび上がってきます。
*本記事は、『iPS細胞と医療 最新技術でどこまで臓器は治せるか』(ブルーバックス)を再構成・再編集したものです。
ホメオティック遺伝子の発見
1950年代から1960年代にかけて、急速に進んだ遺伝子に関する研究から生じた、「もし遺伝子を操作できたら、細胞の運命も変えられるのではないか」とという考え。それを証明する、ある有名な研究が1978年に報告されました。
アメリカのエドワード・B・ルイス博士(1995年にノーベル生理学・医学賞を受賞)が、ハエの初期胚 (しょきはい。受精後すぐの段階のこと)を使って、遺伝子を操作することで、体のある部分がまったく別の部分に変わってしまうことを示しました*¹。このような遺伝子は「ホメオティック遺伝子」と呼ばれています。
少し難しく感じるかもしれませんが、ヒトにたとえてみると、もう少しイメージしやすくなります(実際にヒトでこのような実験が行われたわけではありません)。
たとえば、ヒトの腕を作るために必要な遺伝子Xがあったとします。この遺伝子Xを、もともと腕ではない場所、たとえば背中やお腹などに入れたとしたら、そこから腕のようなものが生えてくるかもしれないのです。もし遺伝子Xをたくさん導入すれば、腕が何本も生えて、まるで「千手観音」のような 姿になる可能性さえあるのです(これはあくまでたとえ話ですが)。
*1 ハエの初期胚 (しょきはい。受精後すぐの段階のこと)を使って、遺伝子を操作することで、体のある部分がまったく別の部分に変わってしまう:E. B. Lewis, A gene complex controlling segmentation in Drosophila . Nature 276, 565-570 (1978).
細胞の運命を左右する「マスター遺伝子」
このようにして、遺伝子の働きを調べることで、どの細胞がどんな体の部分に成長するのか、そしてそれをどう変えられるのかということが、明らかになってきました。このように、細胞の運命を左右するような特別な遺伝子は、「マスター遺伝子」と呼ばれています。
マスター遺伝子は、その細胞がどんな性質を持ち、どのように変化していくかを強くコントロールします。
そして、このような研究が進んだことで、体の細胞の核も、マスター遺伝子によって初期化できるかもしれない可能性が見えてきました。つまり、受精卵を使わなくても、体細胞の核を初期化して、命の始まりに近い状態へと戻せるかもしれない、という夢が見えてきたのです。この発想が、のちにiPS細胞の発見へとつながる重要なヒントになったのです。
羊のドリーが、世界に与えた衝撃
前回の記事でご紹介したように、1962年にガードン博士は、カエルの体の細胞からクローンカエルを作ることに成功しました。わかりやすくするために、ここではクローンカエルとしましたが、このときの論文では オタマジャクシまでしか作れなかったため、正確にはクローンオタマジャクシです。
しかし、カエルのような両生類と、ヒトや羊のような哺乳類とでは、クローンを作る難しさがまったく違います。カエルではできたことが、哺乳類ではなかなかうまくいかなかったのです。 当時、多くの科学者たちが哺乳類のクローン作りに挑戦していましたが、なかなか成功しませんでした。
そのような中、1986年にスティーン・ウィラッドセン博士は、ある重要な一歩を踏み出しました*²。博士は、羊の「初期胚」、つまり受精卵が少し成長した状態の細胞の核を、別の受精卵に移し、その結果、クローン羊を作ることに成功したのです。これは、哺乳類でもクローンが作れることを示す証拠になりました。
さらにその10年後、1996年にはイアン・ウィルムット博士が、より画期的な実験の成功を報告しました*³。なんと、羊の体の細胞から核を取り出し、それを受精卵に移植して、新たな命を誕生させたのです。これによって、成体(せいたい。すでに成長した動物)の細胞からもクローンが作れることが証明されました。
このとき生まれた羊は「ドリー」と名づけられ、世界で最も有名な羊となりました。
名前の由来は、ドリーの飼育係がアメリカの歌手「ドリー・パートン」のファンだったからだと言われています。ドリーはその後、2003年に呼吸器の病気で亡くなりました。ドリーは世界で最も有名な羊として、その剥製はスコットランド国立博物館に展示されています。
*2 スティーン・ウィラッドセン博士は、ある重要な一歩:S. M. Willadsen, Nuclear transplantation in sheep embryos. Nature 320, 63-65 (1986).
*3 より画期的な実験の成功:K. H. S. Campbell, J. McWhir, W. A. Ritchie, I. Wilmut, Sheep cloned by nuclear transfer from a cultured cell line. Nature 380, 64-66 (1996).
カエルから羊まで…34年もの長い時間が意味するもの
1962年にクローンカエルが作られてから、1996年にクローン羊が誕生するまで、なぜ 34年もの長い時間がかかったのでしょうか。カエルと羊では、それほどまでに違いがあるのでしょうか。その理由について、少し考えてみたいと思います。
哺乳類でクローン動物を作ることが難しい理由の一つは、成功する確率がとても低いことにあります。たとえば、成体の細胞から核を取り出し、それを未受精卵に移すーーこの一連の繊細な作業を行ったとしても、クローン動物が実際に生まれる確率は、たったの1〜2%程度だとされています。
さらに、体細胞の核を移すたびに、新しい未受精卵が1つ必要になります。もし成功率が1%であれば、クローン動物を1匹だけ誕生させるためにも、単純に計算して100個もの卵細胞を準備しなければならないことになります。大量の未受精卵を使ってしまうとともに、すべてを子宮内に戻す作業もとても大変な作業です。
じつは、新しい命の「もと」となる、非常に大切な存在であるは未受精卵(まだ精子と結びついていない卵子)や受精卵(精子と結びついた卵子)を必要したことは、クローンカエルの実験の段階で課題となっていました。
こうした課題を解決するために、科学者たちは新しい方法を考えました。それは、「クローン動物になりそうな、発生が順調に進んでいる胚=受精卵が少し成長した段階のもの」を見分けて選び、その細胞を長く育てられないかという工夫です。
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続いては、哺乳類におけるクローン研究の新たな可能性が広げることになったntES細胞と、その課題解決から始まった山中伸弥博士の挑戦について解説します。
iPS細胞と医療 最新技術でどこまで臓器は治せるか
iPS細胞発見から20年。ついに世界初の実用化へ! 臓器はどこまで治せるのか。これまでの研究の足跡や、最新研究を徹底解説。