「月9をつくった男……なんか、なんじゃそりゃ! ってタイトルをつけられちゃったな(笑)。たしかに僕はフジテレビの演出家として、いくつもの『月9』ドラマにたずさわってきました。なかでも、メイン演出をつとめた『東京ラブストーリー』(1991年)が、はじめて『月9』の枠をブランドにしたとはよく言われます。
国民がドラマに熱中したあの頃に何が起こっていたのか。ちょうどアナログからデジタルへと移り変わるタイミングで、ドラマやその主題歌が『コンテンツ』として流通し、巨大なビジネスになっていった……。そんな激動の時代についてお話ができればと思っています」
そう語るのは、永山耕三氏(69歳)。フジテレビに’81年に入局し、ドラマの演出家として活躍。最終回の平均視聴率が32・3%を記録した『東京ラブストーリー』をはじめ、『愛という名のもとに』『ひとつ屋根の下』『妹よ』『ロングバケーション』『ラブ ジェネレーション』など、いまも世代や国を超えて愛される数々のヒットドラマを生み出してきた、伝説の演出家だ。
いま、日本のドラマはかつてほどの元気がないと言われている。特に民放発のドラマが、ネットフリックスなどの配信サービス制作のドラマの勢いに押されている現実がある。では、あのフジテレビドラマ黄金時代はどうやって生まれたのか。おカネがあったいい時代というだけなのか。たまたま才能のある人材がいたのか。制作体制が違うのか。
「月9」というブランドが誕生した
それでは永山氏に、まずは『東京ラブストーリー』の話を聞こう。
「創作論というとカッコいいですけれど、『東京ラブストーリー』についてはそんなに深いことは言えないかもしれません。素晴らしい原作、素晴らしいキャストに恵まれたのはもちろんだけれど、あとは若いスタッフたちが睡眠時間を極限まで削って頑張ったという、令和の世ではありえない根性論ですからね(笑)。そして、坂元裕二という若き才能に、寝ないで脚本を書かせ、彼独特の台詞を絞り出させたのが最大の成果なのかなと思います」
月曜9時は、フジテレビにとってはそれまでただのドラマ枠の一つでしかなかった。月曜9時の枠で初のメガヒットドラマが『東京ラブストーリー』であり、「月9」の価値をすべて変えてしまった。
先に、それまでの日本のドラマ制作事情について、背景を簡単に説明しておきたい。まず’80年代後半まで、ドラマといえばTBS、日テレが先駆け的な存在だった。各局が山田太一や倉本聰、鎌田敏夫といった実力派の脚本家を奪い合う中、フジは常に両局を後から追いかける立場だった。
そもそもフジテレビでは「局制」つまり局内制作ドラマではなく、共同テレビやテレパックといった制作会社に制作を発注するスタイルが一般的で、ドラマ制作能力が強いわけでもなかった。
そんなフジテレビに、ひとりキーパーソンがいた。山田良明(79歳)。『北の国から』(’81年~)を手掛けたフジテレビドラマ制作部の名物プロデューサーだ。
「当時脂の乗った40代だった山田さんと、大多亮や僕たちまだ30歳前後のドラマ制作の若いスタッフたちは、新しいドラマづくりを目指したんです。名脚本家にホンを頂いて、台詞1文字も変えてはいけないような作品づくりではなく、若い脚本家を自分たちで発掘して、コミュニケーションをとりながらドラマをつくりたかった」(永山氏)
常に視聴率でTBSにリードされていたが…
そんな目的で’87年にはじめて募集されたのが、『フジテレビヤングシナリオ大賞』だ。そして、第一回の大賞受賞者が、当時まだ19歳の坂元裕二だった。
’80年代末、月曜9時の枠は、TBSとフジテレビがともに連続ドラマを放送し視聴率をわけあい、常にTBSがリードしていた。
そんな中、柴門ふみ原作で、坂元裕二の連続ドラマデビュー作となる『同・級・生』が’89年7月クールの月曜9時ドラマとしてスタートする。しかし、安田成美と緒形直人を主演に据えたこのドラマも、裏番組である浅野温子主演、TBSの『ママハハ・ブギ』に押され、視聴率は10%台で善戦したものの決して振るってはいなかった。
そう、隔世の感があるが、当時のヒットドラマは、20%超えが当たり前だった。しかし『同・級・生』の演出家の一人だった永山氏に、意外なニュースが飛び込んでくる。
「『ママハハ・ブギ』は12話で最終回を迎えたのに対し、『同・級・生』は13話まであった。つまり1回分多かったんです。『同・級・生』の最終回の裏では、TBSはなにかの特番を放送した記憶があります。そうしたら、『同・級・生』の視聴率が、最終回にしてはじめて20%を超えたんです。この枠なら、この内容ならば、実は数字を取る可能性があるぞ、と思いましたね」
しかもTBSは、月曜9時の枠での連続ドラマの放送を’89年10月にとりやめてしまう。こうして『東京ラブストーリー』ヒットまでの、いわば舞台が整えられていった。
高視聴率を狙った意欲作ではなかった
永山氏は、「『東京ラブストーリー』が放送された’91年1月期の月曜9時は、野球で言うところの“ブルペンデー”でした」と笑う。
ブルペンデーとは、本来のエースが先発せず、救援投手が継投する試合のこと。
つまり、『東京ラブストーリー』はエース格の強力な脚本家やスタッフ、キャストで作られたわけではなく、もともと高視聴率を狙った意欲作でもなかったのだ。
「まず、鈴木保奈美さんの主演が決まって、それからドラマの企画を考えました。鈴木さんは当時24歳で、主演もまだ多くはなかった。プロデューサーの大多亮は当時32歳、演出の僕が34歳で、現場ではいちばん年上でしたね。美術など制作スタッフもベテランはいなかった。
経験値が低いから、ドラマづくりの苦労をよくわかっていないんですよ。だから、ナイトシーンだらけの台本を作ってしまうと、照明の問題もあるし撮影も編集もとにかく大変。しかも雨降らし(機械で人工的な雨を降らした撮影)までやるから……。先輩たちには『お前たち、大変だな』って言われましたよ。でも、大変だなんてそもそも知らないんだ(笑)。それで1週間に5日、明け方までナイトロケをする徹夜、徹夜の日々でした」
思い切った「原作改変」がヒットにつながる
『東京ラブストーリー』のヒットの理由としてたびたび語られるのが、原作漫画では恋敵役だった赤名リカを、ドラマでは主人公に据えたこと。明るく自己主張がしっかりした、自立した女性であるリカを鈴木保奈美が可愛らしく演じ、当時の女性たちの大きな支持を得たのだ。言ってしまえば原作を改変したわけだが、
「まだあの頃は、漫画家さんよりテレビ局の立場が強かったので、無理も言えたんです。ですがなにより、柴門ふみ先生はドラマの『同・級・生』の出来を気に入っていらしたようで。坂元裕二という脚本家に信頼を置いていたんです。それが大きかったですね。
リカを主人公にすることについて、原作を読んだ大多、坂元と私とで話し合った記憶があります。でも、誰に最終的な決定権があったとか、そんな感じではなかった。ただ、鈴木さんに誰を演じたいかを尋ねたことは鮮明に覚えていますよ」
鈴木保奈美の答えは、「私、リカがいい!」――こうして、歴史的ヒットドラマが萌芽したのだった。
相手役の永尾完治役は織田裕二に決まり、「カンチ」というはまり役を手にする。他のメインキャストに決まった江口洋介、有森也実、千堂あきほといった後のスター俳優たちも、まだ20代前半の若手だった。
つづく【後編記事】『』では、小田和正『ラブ・ストーリーは突然に』がいかにして主題歌に決まり、ドラマを彩ったのか深掘りしていく。
取材・文/伊藤達也(ライター・編集者)
「週刊現代」2026年3月16日号より