「ふつう」に違和感があるすべての人へ――。
病気はどう「発明」されるのか? 生きづらさは連鎖する? どこまでが医学で、どこからがビジネス? 命の優先順位はあるのか?……病気が教えてくれる、新しい「世界の見方」。
注目の新刊『「ふつう」ってなんだろう』では、自分と世界、身体と心、正常と異常のあいだからものごとの本質を考えていく。
(本記事は、美馬達哉『「ふつう」ってなんだろう――病気と健康のあいだ』の一部を抜粋・編集しています)
古い理論に基づく新薬
従来の認知症治療薬であるドネペジルなどは、1980年代に主流だった「アセチルコリン仮説」に基づいて開発された薬でした。これらの薬はいずれも、脳内のアセチルコリンという神経伝達物質の量を増やす方向に作用します。
その代表格であるドネペジルは、日本のエーザイ社が開発しました。1983年に研究が始まり、当時注目されていたアセチルコリン仮説を背景に研究が進められました。
しかし、新しい医薬品を開発し、市場に出すまでには長い時間がかかります。化合物の合成から動物実験、安全性の検証、さらには臨床試験に至るまで、一般的には、20年近くの年月を要します。実際にドネペジルが販売されたのは1990年代後半で、その時点ではすでにアセチルコリン仮説は最先端の研究領域では勢いを失っていました。
認知症の治療薬をめぐって、専門家の評価が歯切れの悪いものになりがちなのは、この医学研究と臨床応用の時間差(古い理論に基づく新薬)が一因となっています。
ただし、アセチルコリンが認知症の根本原因ではないにしても、「物忘れ」などの症状の一部には関与していると考えられています。だからこそ、ドネペジルなどの薬はいまでも多くの患者さんに処方されており、一定の支持を得ています。ただし、これらの薬を「根本的な治療薬」と考える医療関係者はいません。
1990年代に提唱された「アミロイド仮説」に基づいた治療薬が登場するまでには、20年以上かかりました。ようやく市場に登場したのが、「抗アミロイドβ抗体薬」と呼ばれるレカネマブやドナネマブだったのです。そして、アセチルコリン仮説の盛衰と同じことが、アミロイド仮説にも当てはまりそうなのです。
揺らぐアミロイド仮説
アミロイド仮説は、1992年に提唱されて以来、主流理論とされてきました。しかし、このアミロイド仮説には、いくつもの説明のつかない事実が指摘されています。
たとえば、亡くなった後に病理解剖で脳内にアミロイド沈着が見つかったにもかかわらず、生前には認知機能がほぼ正常だったという人がいるのです。とくに修道女を対象とした研究は、このような例が多数含まれていたことで知られています。また、治療によって脳内のアミロイドをほぼ除去できたとしても、認知機能が改善されないケースも多く報告されています。こうした事例から、アミロイドは病気の原因ではなく、むしろ病気の進行によって生じた結果ではないかとする説も有力になりつつあります。
また、アミロイド仮説に代わるさまざまな理論も存在します。
タウの異常がより重要であるとする「タウ仮説」、脳の慢性的な炎症反応が病気を進めるという説、脂質代謝の異常が関わっているという説、神経細胞の周囲のミエリン劣化が影響しているという説、酸化ストレスが神経細胞を傷つけるという説、細胞内のごみを処理するリソソームの機能不全が原因だという説などです。
アミロイド仮説に対しては、研究の進め方そのものにも批判があります。アルツハイマー病の専門家の神経学者カール・へラップ教授は、アミロイド仮説が長らく研究資金の配分を独占し、他の有望な仮説の探究を妨げてきたと強く批判しています。
アルツハイマー病研究の歴史は、急いで治療薬を求めるあまりに袋小路に入り込み、道を見失った物語でもある。私たちはあまりにも長いあいだ——何を隠そう何十年も——学問より商売に重きを置いてきた。(梶山あゆみ訳『アルツハイマー病研究、失敗の構造』みすず書房、2023、318頁)
とはいえ、ここで少し明るいニュースも紹介しておきましょう。
先進国では、認知症そのものの発症率が低下傾向にあるという報告が相次いでいます(Satizabal N Engl J Med 374:523-532 (2016))。1970年代から2010年までに認知症の新規発症が徐々に減ってきているというのです。この理由はまだはっきりとはわかっていませんが、栄養状態の改善や教育水準の向上と関係している可能性が指摘されています。
認知症には、医学だけでなく、社会的な背景が大きく関わっているのかもしれません。
さらに、「「ふつう」に違和感があるすべての人へ…「正常と異常」「病気と健康」のあいだから見えること」では、新しい病気が実は「発明」されたり「売り込まれたり」している実態などを紹介している。