2025年秋に公開された映画『女性の休日』は、ジェンダーギャップ指数で16年連続世界1位のアイスランドのドキュメント映画だ。1975年10月、同国で行われた「女性の休日」では、女性の9割が仕事や家事を休み、男女の賃金格差や家事労働の偏りの是正を求めた。映画では、同国がジェンダー平等が進むきっかけとなった、その軌跡を綴っている。
これを受け、日本でも「女性の休日PROJECT」が立ち上がり、3月8日の国際女性デーをはさむ3月6日から12日まで自主的なイベントが210以上開催されている。FRaUでも、3月5日、NewsPicks for WEと共同で、「女性の休日WEEKのキックオフ」ともいえるイベントを実施。
約80名が参加し、ジャーナリストの浜田敬子さん、漫画家の鳥飼茜さん、FIFTYS PROJECT代表の能條桃子さんの講演のほか、「私たちは男性を愛してる。でもちょっと変わってほしいだけ〜みんなで考える「こうなったらいいな」妄想セッション」と名付けられたブレストが行われた。
そのイベントに参加したライターの長谷川あやさんが、そのイベントの中で出てきたキーワードのひとつ「ケアワーク」について自身の体験とともにつづる。
ケアワークが女性にまかされがちのケアワークって?
イベントで私が特に印象に残ったのは「ケアワーク」という言葉だ。事前に参加者から募ったアンケートに、「以下のキーワードで何を改善すれば、ジェンダーギャップが解消されると思いますか? 3つまで選んでください」という質問があった。いちばん得票を集めたのは「選択的夫婦別姓」の次に多かったのが、「ケアワークが女性にまかされがち」という回答だったという。
そもそも「ケアワーク」とはなんだろうか。講演を聞きながら、スマフォで「ケアワーク」という言葉を検索してみると、「育児・家事労働・介護」とあった。なんとなくイメージしていたとおりだ。
「ケアワークが女性にまかされがち」という言葉は、「確かにそうかもしれないな」と思う。昔よりは増えてきているとはいえ、道でときどき見かける未就学児たちを連れている保育士の多くは女性だ。男性も増えてきているとはいえ、看護師もまだまだ女性が多い印象がある。
結婚するつもりがない理由のひとつ
が、実体験となると、未婚で他人と暮らした経験がない私はピンと来ない。「育児・家事労働・介護」なんて、時間があるほうや得意なほうがやればいいじゃないか、そういった分担がうまくいかずにもやもやするくらいなら一緒に生活しなければいいのにと思う。私が結婚をしなかった、そして今後結婚するつもりのない理由のひとつだ。
その週末、私は古い友人である男性同士のカップルと3人で食事をした。彼らは10年ほど前、アメリカで籍を入れている。ふと思った。同じジェンダーでパートナーシップを結んでいる彼らは、どのように家事分担をしているのだろうか。
仮に彼らの名前をAとBとする。私の質問にBはこう答えた。
「夕食は平日はAが作っているよ。Aのほうが早く帰宅するし、僕より料理が上手だからね。Aの仕事が遅くなる時は僕が作っているよ。料理以外の家事は僕かな。掃除、好きなんだよね。最近、新しい洗濯機を買ったから、洗濯も楽しいし!」
彼らはごく自然にこの役割分担にたどりついたのだろうか。もしかしたら、ここに至るまでには紆余曲折があったのかもしれない。いずれにしても、Bがそう言うのを、にこにこ聞いているAを見ながら、こういうパートナーシップなら結んでみたいなと思った。家事全般が得意でない私はなんの役にも立たなそうで、難しい気もしなくもないが。
未婚で子どものいない私の「ケアワーク」
FRaUのキックオフイベントが行われた3月5日、私は、「ケアワーク」で大きな失敗を犯した。恥ずかしい話だが、ここで告白し懺悔したい。
未婚で子どもがいない私にとっての「ケアワーク」は「介護」だ。FRaUでも何度か、認知症の母の介護について書かせてもらっている。
母はこの月末に84歳になる。認知症と診断されてから今年で6年目。いよいよ会話もかみ合わなくなってきた。最近は排泄も失敗する。自宅で私が介護するのはもう限界なのだが、未だ施設が決まらない。正確には決められない。厚生労働省が発表した、令和6年簡易生命表によると、日本人の平均寿命は女性が87.13歳、男性が81.09歳だ。この状態で、まだ平均寿命に達していないのかと複雑な気持ちになる。
母の介護は私が中心になって行っている。2歳離れた弟はサポート的な役割は果たしてくれてはいるが、キーパーソンは私だ。私は、それを女性だからというより、長子だからという理由で受け入れている。きっちり半分ずつ分担しようと提案したら恐らく弟は受け入れるだろう。が、正直、それも面倒くさい。ケアマネージャーやかかりつけ医との窓口は、私たちにとっても先方にとってもひとりのほうが便利な気もするのだが、どうなのだろうか。
飼い犬にチョコレートを…
イベント後、私は友人と飲みに行った。22時すぎに帰宅すると母は寝ていた。ここ1年で、母は寝ている時間が長くなった。家の中をうろうろして食べ物をあさったり、勝手に戸棚をひっかきまわしたり、シーツや洋服(主に私の)を切り刻むよりはずっといい。なんならずっと寝ていてほしい。
私の帰宅による物音で目を覚ました母はもそもそと起き出し、その場で排尿を始める。
もはや「おしっこやうんちをしたくなったらトイレに言ってね」と言っても理解できない。手を引いて無理やりトイレに連れていっても、どうすればわからないこともある。家で介護するのはもう限界なのだ。私は舌打ちをしながら片付けを始める。
ふと顔をあげると、母は私のバッグを漁り、そこからチョコレートを取り出していた。挙句の果てには飼い犬に食べさせようとしている。犬にチョコレートを食べさせるのは厳禁だ。死に至る場合もある。普段、チョコレートは母の手の届かない場所に置いてあるのだが(冷蔵庫のいちばん上の段には鍵を付けている)、バッグにチョコレートが入っていることを失念していた。私のミスだ。
とにかく犬にチョコレートを食べさせるわけにはいかない。私はあらん限りの声で母を怒鳴った。もう何年も前から、何度も何度も言っている。愛犬の命に係わることなのに、なぜ忘れてしまうのだろうと悲しみと怒りがこみ上げてくる。冷静になれば、「忘れる」病気なのだと理解できる。母だって好きで忘れているわけじゃないことだってわかっている。母はなぜ私がこれほどまでに怒っているのかわからずに目に涙をためて怯えている。それでも私は怒鳴り散らした。「殺せるものなら殺したい」とも言った。
窓が全開になっていた…
しばらくして、窓が全開だったので開けていることに気づいた(母は家にずっといると、季節を問わず窓を開けたがる。そして締めない)。これはまずいかもしれない。少し前に、友人が父親と怒鳴り合いをして、近所の人に警察に通報されたと言っていたことを思い出した。
これまでも母を怒鳴ったことは何度もある。というか怒鳴らない日はない、といったほうが正しいかもしれない。ただこの日はお酒が入っていて、いつもより大きな声で、さらにしつこく繰り返し怒鳴った。しかも窓が開いている。これはやってしまったかもしれない。
まずは母をなだめて寝てもらい、水をがぶ飲みして酔いをさました。予感は的中し、数十分後(正確には覚えていないのだが)、インターフォンが鳴る。モニターには制服姿の警察官が二人映っていた。「はーい」と最大限に愛想のよい声を出してオートロックを開錠する。
警察官がふたり…
玄関のドアを開けると、「ご近所の方から大きな声が聞こえると連絡がありまして」。心ここにあらずで、正確な表現は忘れてしまったが、物腰柔らかな態度、かつ言い方だったと記憶している。こちらもできるだけ印象をよくしよう。「すみません! 認知症の母をつい怒鳴ってしまいました。夜遅くにご迷惑をおかけして申し訳ありません」と平謝りする。近所の方も夜遅くに中年女の怒鳴り声が聞こえてきてさぞ迷惑だっただろう。しかも「殺したい」とまで言っている。
警察官には、家族構成や母の認知の状況などを問われるがままに話し、「騒音(と言っていたと思う)には気を付けてください」と念を押され、最後は「大変だと思いますが、頑張ってくださいね」と励まされた。母の徘徊により、もう何度となく警察にはお世話になっている。頭があがらない。
ドアを閉めて思った。母が家で変死したら、私、疑われるんだろうなあ。そして、「もうプロに任せよう」と決意した。私にとっても母にとっても、施設に入れるほうが幸せだ。金銭面は心配だが、「介護」という「ケアワーク」に比べれば、まだお金を稼ぐほうが得意だ(あくまでも「介護」に比べれば、ではあるが)。人によって、また状況によって変わってくるだろうが、今の母と私の状況において、「介護」という「ケアワーク」は、お金を払ってプロに任せるのが、唯一絶対の正解だと、小さな寝息を立てて眠る母を眺めながら確信した。