かつて20万人もの構成員を擁した暴力団。
覚せい剤の輸入や賭博、みかじめ料の徴収で莫大な収益を上げ、1980年代の年間収入は推計8兆円に達したと言われる。だが平成に入って以降、暴対法の制定や警察の行き過ぎた捜査、メディアによる批判的な報道が原因となり、暴力団は衰退の一途をたどってきた。
では、暴力団が社会から消えていくことは、我々一般国民にとって「良いこと」だけなのだろうか?しばし「必要悪」として語られてきた“やくざ”の実態を、『やくざは本当に「必要悪」だったのか』より一部抜粋・再編集してお届けする。
【前編を読む】「山口組」ですら組員が“9万人”から“7000人”までに減少…「抗争に勝利」しても弱体化が止まらない暴力団の現状
山口組による抗争と殺害
山口組は従来、ほぼ10年に一度ぐらいの割で、抗争を展開してきた。抗争の模様は全国に新聞やテレビ、ネットニュースやSNSなどで報じられ、山口組の知名度と好戦性を国民に強く印象づけてきた。抗争は一種のPRイベントとして、山口組のイメージを大ならしめてきた一要素である。
たとえば3代目組長・田岡一雄が1978年7月、京都のクラブ「ベラミ」で松田組系の大日本正義団幹部・鳴海清が放った銃弾で首筋に負傷したことにより激化した大阪戦争では、松田組系の8人を殺した。同年11月、山口組は松田組の意向を無視して一方的に抗争終結の記者会見を開いて勝利宣言した。
当時の山口組の構成員数は1万526人とされ、山口組は抗争後、不動のナンバーワン暴力団の地位をより強めた。
また1985年1月、山口組4代目組長・竹中正久が大阪吹田市のマンション「GSハイム第2江坂」のエレベーターホールで一和会系の襲撃隊に襲われ、次の日に死亡した。こうした山口組対一和会抗争は4年後の89年3月、一和会会長・山本広が山口組本家を訪ね、自らの引退と一和会の解散を報告したことで終結した。
一和会側に死者19人、山口組側も10人の死者を出す激烈な抗争であり、山口組は抗争終結時点で組員2万6170人に膨れ上がり、暴力団員総数の29.7パーセントを占める巨大化を成し遂げた。
山口組による銃撃事件とその報復
続く1997年8月には5代目山口組の若頭・宅見勝がJR新神戸駅に隣り合う新神戸オリエンタルホテル(現・ANAクラウンプラザホテル)4階のティーラウンジで山口組若頭補佐・中野太郎が率いる中野会の襲撃犯4人に襲われ、銃弾7発を撃ち込まれて死亡した。山口組執行部間の内紛に端を発する銃撃事件である。
警察は犯行に及んだ実行犯たちがどこの誰か、長く証拠を掴めずにいたが、山口組の執行部はほぼ事件発生直後に中野会の犯行と見抜いていた。
組長の命を取られた宅見組などは中野会系の関係先や組員、元組員などに激しい報復攻撃を加えた。
事件の総指揮者と見られた中野会風紀委員長・吉野和利は98年7月、滞在先の韓国で遺体となって発見された。韓国の警察は病死と認定し、日本の警察もそれを受け入れたが、根強く日本では宅見組、もしくは中野会自体による毒殺説が流れた。
99年9月には中野会の若頭・山下重夫が宅見組の手で事務所代わりの麻雀店で射殺された。2002年4月には沖縄に遊びに行った中野会副会長・弘田憲二が宅見組の後身団体である天野組(宅見組は宅見の死後、2代目宅見組と天野組に分かれた)の報復で射殺された。同組の組員はオートバイで、乗用車に乗る弘田を追尾し、車内の弘田に銃弾3発を撃ち込み、弘田は1時間後に死亡した。
そのころの山口組勢力は構成員数が1万6272人、日本最大の勢力ではあったが、こうした一連の報復攻撃で組員数が増えることはなかった。
中野は世間にはバレバレだったが、2021年1月に病死する直前まで、中野会の犯行であることを明確には認めず、自身は殺人教唆で逮捕されることさえなかった。
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