列島誕生以来、地震・噴火・津波などの自然災害の脅威に絶え間なくさらされてきた災害大国・日本。いくつもの巨大災害が、日本史上にその名を残してきた。平安時代を揺るがした「貞観の大津波」、近世では「宝永の富士山噴火」や「安政南海地震」、近現代では「関東大震災」や「阪神淡路大震災」、そして「東日本大震災」……。歴史を大きく塗り替えた自然災害はなぜ発生し、日本にどのような影響を与えてきたのか。浮かび上がる「歴史の法則」とは――壮大なスケールで日本史を捉えなおす新連載!
本記事は、『日本史を地学から読みなおす』(鎌田浩毅・著)を一部抜粋・再編集したものです。
関東を立て続けに巨大地震が襲う
1680年(延宝8年)、徳川綱吉(1646~1709)が江戸幕府の第五代将軍に就任しました。徳川綱吉によって制定された有名な法律といえば、犬などの動物の殺生を禁じる「生類憐れみの令」です。1703年1月(元禄15年12月)には、「忠臣蔵」の題材となった出来事である「赤穂浪士討ち入り事件」が生じました。
そんな時代に、関東地方をまたもや巨大地震が襲いました。延宝房総沖地震の発生から26年後の1703年12月(元禄16年11月)。まだ津波被害の記憶も残る中で、関東地方でふたたび発生したのが「元禄関東地震」です。
今度はフィリピン海プレートが北米プレートに沈み込む「相模トラフ」を震源域とするプレート境界型地震といわれています(図「延宝房総沖地震と元禄関東地震の震源域」)。
マグニチュードは7.9~8.2と推定されており、非常に巨大な地震です。関東南部の広い範囲がはげしく揺れました。江戸(東京)でも被害が発生しましたが、地盤のよい台地(いわゆる山の手)にあった大名屋敷の被害は軽く、低地(下町)にあった家屋の被害が大きかったといわれています。
また、とくに被害が大きかったのが神奈川県の小田原です。地震の揺れによって多くの家屋が倒壊したあと、火災も発生しました。小田原での死者は約2300人にのぼるといわれています。
地震による津波も発生しました。房総半島の犬吠埼から、伊豆半島南端の下田に至るまで、幅広い範囲に巨大津波が押し寄せ、沿岸部にあった集落を襲いました。地震による倒壊や津波による犠牲者を合計すると、被災地域全体の死者数は約1万人以上におよぶとされています。
相模トラフを震源域とする地震は、過去にも繰り返し発生しています。その発生間隔は180~590年だとされています。相模トラフでは、元禄関東地震の220年後(大正時代)にも巨大地震が発生し、発展した東京の街を襲うことになります。
史上最大級の超巨大地震
元禄関東地震の発生から4年後の1707年10月28日(宝永4年10月4日)、日本列島で発生した地震の中でも最大規模の超巨大地震が発生しました。それが「宝永地震」です。
宝永地震は、1605年の慶長地震以来、102年ぶりに発生した南海トラフ地震です。しかも、南海トラフ地震の3つの震源域(東海・東南海・南海)がすべて連動してずれ動くという、最悪のケースでした。マグニチュードは8.6と推定されています。M9だった2011年の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)と並ぶような、最大規模の地震だったのです。
西日本の広い範囲を、激しい揺れと巨大津波が襲いました。当時の被害状況が記録された文書などから各地の震度を推定すると、関東から九州までの広い範囲で震度5以上の揺れが生じ、大坂などでは震度7に達したのではないかと考えられています(図「宝永地震の震度分布と津波波高」左図)。
津波の高さも各地で5メートル以上に達したと考えられています(図「宝永地震の震度分布と津波波高」右図)。とくに高知県では巨大な津波が押し寄せ、津波によって1万戸以上の家屋が流失しました。大坂湾にも大きな津波が押し寄せて、川や堀をさかのぼりました。川に係留されていた船が上流へ押し流され、川に架かっていた多くの橋が破壊されたことが、文書に記録されています。
尾張藩(愛知県)の藩士だった朝日文左衛門重章が書き残した日記である『鸚鵡籠中記』には、当時の地震の様子が生々しく描写されています。当時34歳だった重章は、夕飯が出て酒を飲んでいたときに地震に遭遇しました。
だんだんと揺れが強まり、屋内にいた人たちは皆、裸足で庭に飛び出たそうです。大地は揺れて歩くことができず、多くの石塔が倒れました。武家屋敷の塀の7~8割が崩れたり、泥水が湧き出したり(液状化)したことも書かれています。
宝永地震による被災地域全体の死者数は少なくとも2万人に達し、地震で倒壊した家屋は約6万戸、津波で流失した家屋は約2万戸にのぼるといわれています。ひとたび南海トラフで巨大地震が発生すると、地震と津波によって広範囲で甚大な被害が発生することがわかります。
富士山が843年ぶりの大噴火
苦難はまだ終わりません。宝永地震の発生からわずか49日後の1707年12月16日(宝永4年11月23日)、今度は富士山で爆発的な噴火が起きました。「宝永噴火」です。
大規模な噴火は、864年の貞観大噴火以来、843年ぶりのことでした。小規模な噴火は何度か発生していましたが、それでも1511年以来起きていませんでしたので、富士山にとっては実に約200年ぶりの噴火でした。
噴煙が昇ったのは富士山の山頂ではなく、南東側の山腹でした。山腹から噴火する様子を描いた図が多数残されています(図「富士山噴火絵図幷御徒目付見分書上写」)。
そのときの噴火口が、現在も南東の山腹に直径約1キロメートルの大きなくぼみとして残っている「宝永火口」です。
宝永火口からは大量の軽石とスコリア、火山灰が噴出して、東側の山麓に厚く堆積しました。塊状の多孔質な噴出物のうち、淡色のものを軽石、暗色のものをスコリアとよびます。山麓にあった村は厚さ数メートルに達する噴出物に埋まり、壊滅的な被害を受けました。
舞い上がった大量の火山灰は、偏西風に乗って東側に広がり、横浜や江戸の街にも降り積もりました。江戸では、噴火が起きた午前10時ごろに噴火による空気の振動(空振)の影響で家が揺れ、正午ごろには火山灰が降り始めたそうです。
火山灰は、紙や木などが燃えてできる灰とは異なり、マグマが小さな粒状に冷え固まってできたものです。小さなガラスのかけらだといえます。そのため、降り積もった火山灰は水に溶けることはありません。
厚く降り積もった火山灰は、川をせき止めます。やがてせき止めることに限界が来ると、急激に水があふれ出して鉄砲水となります。つまり、大量の火山灰は土砂災害を引き起こすのです。
実際に宝永噴火では、噴火の二次災害としての土砂災害が長期にわたって発生しました。相模湾に面する小田原藩の領地にはおびただしい量の泥流が流れ込み、以降50年以上にわたって土砂災害が断続的に発生しました。
宝永噴火の翌年、当時の江戸幕府(第五代将軍・徳川綱吉)は、噴火による被災民救済と被災地復興の費用とするために、全国から臨時の税金(高役金)を徴収しました。被災地域の藩が独自で対応できないほどに、噴火の被害は甚大だったということです。
1703年から1707年にかけて、相模トラフの元禄地震、南海トラフの宝永地震、そして富士山の宝永噴火と、立て続けに巨大な自然災害が発生しました。江戸時代には地震や噴火に関する科学的な知識もなければ、各地の状況を正確に知ることができる報道番組もありません。人々の不安や恐怖は、どれほど大きかったでしょうか。
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本連載では、地球科学者が100万年スケールで激動の日本列島を描き、歴史から学ぶべき教訓をお伝えしていく。