『KPOPガールズ! デーモン・ハンターズ』(以下、通称名:ケデハンと表記)を知っているだろうか。2025年の世界トレンドを語る際に、欠かすことができない世界的ヒット映画のタイトルだ。
「10月末のハロウィンでも、私が住んでいるボストンでは、仮装でもっとも多かったのが『ケデハン』でした。毎年行われる『ハロウィンに「なりたい人」ランキング』でもトップ10の半分以上が『ケデハン』の登場人物たちに独占されていました。
私自身も『ケデハン』の登場人物のゾーイに仮装したのです。仮装用のアイテムは売っていないのですべて手作り。街にはそういった手作りケデハン・キャラクターたちが溢れていました」というのは、『ソーシャルジャスティス 小児精神科医、社会を診る』『小児精神科医で3児の母が伝える 子育てで悩んだときに親が大切にしたいこと』などの著書があるハーバード大学医学部准教授で小児精神科医の内田舞さんだ。
『ケデハン』は2025年6月20日に公開されてからNetflix歴代最多の累計視聴回数3億回を軽く超えている。11月7日に発表された第68回グラミー賞ノミネートでは、映画の中の大ヒット曲『Golden』が「ソング・オブ・ザ・イヤー(年間最優秀楽曲)」含め、5部門で候補になった。
前編では、単なるアジアの変わったカルチャーという形ではなく、共感できるキャラクターをアジア人が演じ、ヒットしたことに感動した内田さんの想いをお伝えした。後編では、なぜ欧米の人たちがここまで『ケデハン』にエンパワメントされるのか、引き続き寄稿いただく。
※本文内の歌詞の翻訳は公式的なものではなく、内田舞さんに制作によるものです。
挫折と成功…まさにEJAEの人生のよう
この映画で欠かせない存在は、EJAE(キム・ウンジェ/Kim Eun-jae)さんです。彼女は、この作品で音楽プロデュースと、K-POPガールズグループ「HUNTR/X」のルミの歌声を担当し、大ヒットしグラミー賞にノミネートされた『Golden』などの歌唱務めました。実際にK-POPアイドルを目指し、11歳で韓国の大手芸能事務所でアイドル養成生としての道を歩み始め、10年以上にわたって夢を追い続けてきました。
しかし、彼女の高すぎる身長やハスキーすぎる声が女性らしくないこと、20歳を超えた年齢が旬を超えているといった理由で、デビューが叶わず、アイドルとしての夢をあきらめるしかない状態でした。その後、EJAEさんは、作詞・作曲・プロデュースへとシフトし、数々のK-POPヒットを手がける裏方として実績を築いてきました。今回、本作の出演と制作に抜擢され、自らの過去の葛藤と向き合い、認められなかった自分、叶わなかった夢という傷を注ぎ込んだと語っています。大ヒットの『Golden』の歌詞にもその想いが色濃く反映されています。
歌詞の中で、「この壁を壊すのをずっと待っていた。目覚めて、本当の自分を感じるために」「決まり切ったカタチはもう過去のこと。やっとこれで憧れの存在になる」「もう隠れずに、輝くの、生まれたままで」と過去と対峙し、立ち上がるための希望が描かれます。
長い間「完璧でなければならない」「期待に応えなければならない」という壁に囲まれ、周囲が決めた「パターン(型)」のなかで認められなかったEJAEさんが、ようやくその殻を破り、本当の自分を向き合いたいと願う……、そんな思いをこの曲からも感じることができ、心が震えました。
「弱さ」はときに力になる
そんなEJAEさんのソングライティングパートナーで、ともに『Golden』の作詞・作曲を担当したのが、マーク・ソーネンブリックさんというソングライター、作曲家、プロデューサーです。
実は彼は、私が研修医時代を過ごしたイェール大学で、交流があった知人です。当時、大学生だった彼が挿入歌を作詞作曲したミュージカルを観て、そのクォリティーの高さに感動しました。そのミュージカルに私の友人が出演していたことから、ランチ会に参加し、マークさんと感動を含めていろいろお話をさせていただいたことを懐かしく思い出します。
マークさんもインタビューで、挿入歌の『Golden』について「自分もまだ叶っていない夢はある。その夢にかける思いや葛藤や希望に正直に向き合ったときの複雑な脆弱性がこの歌には表れている」と語っています。
世の中には「成功」や「自己実現」、あるいは「自分にはできる!」といった自信に満ち溢れた歌もあります。ですが、『Golden』含め『ケデハン』に登場する曲は、まだ叶っていない夢や心の内にある弱さを表現することも、希望のあり方であることを気づかせてくれました。
過去の挫折や悲しみについて正直に語り、その思いを希望に変えて歌うことで大ヒット楽曲を作リ出したEJAEさん。そして、作品を通して彼女が長年持ち続けた夢が叶った瞬間を感じることができた……! このことも、欧米で『ケデハン』が支持されたひとつの理由だと思うのです。
「ありのままの自分」を生きること
『ケデハン』が、多くの人の心を動かす理由はひとつではありませんが、重要な要素として、「恥を受け入れること」や「自分の弱さを人と分かち合うこと」への深いメッセージがあると感じました。
『ケデハン』は悪霊退治の物語ですが、銃や爆弾といった従来の武器は使いません。人気K-POPガールズグループ「HUNTR/X」の3人が「歌う」ことで、悪魔の世界から人間界を守る特別なバリア(ホンムン)が生まれるという設定です。
観ていない方にはネタバレになってしまうので、物語の詳細は伝えられませんが、EJAEさんが演じたルミには隠された秘密があります。「恥」とたたき込まれ隠している秘密に彼女は苦しみながらも守護者にならねばならず、葛藤を重ねます。
ルミに起こる、人に言えない秘密や親や周囲から恥を擦り込まれ、本来の自分を表現できないといった問題は現実の世界でもたびたび目撃します。特に、子どもやティーンエイジャーにとっては、身近な問題です。
『ケデハン』は、「弱さや恥は隠さねばならない」という呪縛から解き放ち、逆にそれを力に変えていくことの大切さを丁寧に描いています。我々は誰でも「恥」の恐怖にコントロールされがちです。本当はやってみたかったことを「人からジャッジされて、恥を感じるのが嫌だから」と挑戦を躊躇した経験はありませんか?
恥は隠し、避ける方がラクに生きられると思いがちですが、実際には、恥を秘密として隠し続けることはものすごく心理的なエネルギーを要します。その結果、恥は心と身体のエネルギーを消失させ、ときには私たちの一番いい部分や幸せまでも奪ってしまうのです。
逆に、「誰にも見せてはいけない」と言われ続けてきた秘密を打ち明けたとたんに、秘密の呪縛から放たれ、恥と思っていた自分をいたわれるケースもあります。
90年代後半から2000年代の人気ボーイバンドだったNSYNC(イン・シンク)のランス・バスのケースもそれにあたります。ランスは、最近「自身の恥の葛藤」についてインタビューで語りました。彼は敬虔なキリスト教徒として育ち、さらに女性ファンに支えられるNSYNCのメンバーであるため、「実はゲイである」と知られたらこの世が終わると思っていたそうです。家族にも友だちにもこの秘密を話すことができませんでした。当時、彼は人気女優だった女性と付き合っていましたが、本当の自分を隠し、「恥」と感じる思いばかりが心を浸食し、死にたいと思うほどだったといいます。
今、ランスは愛する男性と結婚し、子どもを2人育てています。彼がゲイであると公言した後も、たくさんのファンがサポートし、ありのままの自分だからこそ今幸せに生きていると語ったインタビューは話題を集めました。
「恥」と感じてしまうものには、さまざまなものがあります。「性虐待を受けた過去を知られたら、恋人や友達からどんな目で見られるだろうか……」と苦しむDVサバイバー、「戦争での自分の行いを知られたら、妻は自分を軽蔑するだろうか……」と悩む退役軍人の方など、精神科医である私の診察の中でもこのテーマは頻繁に出現します。診察や、実生活の中でのサポートを通して、まずは自分自身で恥を抱える自分を受け入れ、そしてその思いを安全な場でシェアしてみることです。少しずつその傷自体が「強さ」に変わっていくプロセスに並走させてもらい、私自身、たくさんのことを学ばせてもらっています。
そういった意味からも、『ケデハン』で「恥」を受け入れる姿が描かれたことはとても素晴らしいと感じたのです。
人は不完全でも素晴らしい
また、この作品では、「不完全なままでも、人はやさしくなれる」ことも描かれています。
最近、SNSなどで「余裕がないとやさしくなれない」というようなコメントが多いと感じます。私は、人は完璧でなくても、幸せを感じることもできるし、面白いものを見て笑い、他人にも自分にもやさしくなることができると思うのです。
人は常に正しく、常に完璧なわけではありません。ネタバレになってしまうので詳細は避けますが、劇中内で、嘘をついて自暴自棄になった人物に対して、「but it’s not all of you(でも、それがあなたのすべてじゃない)」と語りかける場面があります。
私たちは誰しも、間違えたり、後悔もする。けれど、それだけで「自分という人間」が定義されるわけではない。人はもっと多面的で、矛盾を抱えながらも前に進む存在なのだと、何気ない台詞が教えてくれるのです。
エンディング曲の『What It Sounds Like』歌詞の中に、「臆病だったり、嘘をついたりしても私たちは生き延びる。夢を見る者であり、戦う者でもある」といったフレーズが出てきます。
ひとつの過ちや弱さが、人のすべてを決めるわけではありません。それらも含めて、私たちは「私たちである」のです。そんな事実を伝える『ケデハン』は、人間の複雑さを丸ごと抱きしめる物語でした。
『What It Sounds Like』の歌詞にさらに印象的な言葉が続きます。私の翻訳ですが、「私は粉々に壊れてしまった。壊れた後は元どおりには戻らない。でも、その破片にも美しさがあり、修復した後の傷もまた自分の一部である」と……。
この歌詞を聞き、私は日本の伝統芸術の「金継ぎ」を思い浮かべました。壊れた陶器を、傷が見えないように修復するのではなく、金と漆を浸かって傷の美しさをあえて見せる金継ぎの技術は、人生に置き換えても素晴らしいコンセプトだと思います。
心の傷が癒える=トラウマや苦しみを忘れることではありません。あるいは後悔や罪悪感などをそのままでいいとするものでもありません。傷はそのまま残るけれど、その傷に支配されずに、トラウマや後悔などの「傷」を含めた自分をそのまま愛してあげること。そして、自分のために一歩踏み出すことであると思うのです。
完璧を求めることが当たり前の社会で生きる私たち……。白か黒かの分断の中を生きる私たちにとって、『ケデハン』の物語は、救いになるメッセージがたくさんと感じました。K-POPに関心がある人だけでなく、子どもから大人まできっとエンパワメントされるはずです。