孝行のしたい時分に親はなし。
親のありがたさがわかるような年齢になるときには、親は高齢になって天国に旅立ってしまうことも多い。だから若いうちに親孝行しておきなさいよ――そういう意味のことわざだが、なかなか素直になるのは難しい。しかもそれが親に「死ねクソババア!」と吐き捨てて疎遠になっていたとしたら一層難しいだろう。「死ねクソババア!」も甘えているから言える言葉なのかもしれないが、言われた方はたまったものではない。
そんな「大学進学をめぐって母に『死ねクソババア!』と吐き捨てて家を出ていったひとり息子が、55歳になって急に帰ってきた」という物語が、保坂祐希さんによる小説『「死ねクソババア!」と言った息子が55歳になって帰ってきました』。これを泉ピン子さん、佐藤隆太さん、あめくみちこさん、星野真里さんという豪華メンバーで朗読劇として上演することになった。それが『声舞劇 終活を始めた途端、55歳の息子が帰ってきました。』(2026年4月より上演)だ。
では泉ピン子さん自身はどんな親子関係にあったかというと、「正真正銘のファザコン」なのだという。エッセイ『終活やーめた 元祖バッシングの女王の「ピンチを福に転じる」思考法』にもお父さんとの思い出がたくさん綴られている。
10月28日に制作発表が行われた舞台化を記念して、本書よりピン子さんとお父さんとの思い出を抜粋紹介する前編では、英語やゴルフ、読書など、仕事をするうえでもさまざまなことを経験することの重要性をお父さんから学んだことをお伝えした。しかしちょっと「忙しすぎて寝る暇がない」と言ったら、仕事があることの有難みを教えるために、しばらく仕事をいれないようにしていたというのだ。
後編ではそんなお父さんとの別れのエピソードをお伝えする。
大河ドラマを楽しみにしていたけれど
私がテレビで売れ始めた頃、父に、「私が売れた姿と孫の姿、どっちが見たい?」って質問したら、「孫はいらない。結婚もしなくていい。とにかく芸人として大成してほしい」と言ったことがあるんです。女優になって5年目ぐらいに、大河ドラマ「おんな太閤記」に出ることが決まったとき、「人にはまだ言わないでね」って釘を刺しつつそのことを伝えたら、すっごく喜んでた。司馬遼太郎とかいろんな作家が書いた 「太閤記」を大量に買ってきて「勉強しろ!」って渡されました。
あんなにきつく口止めしたのに、ある日実家に帰ったら、蕎麦屋の兄ちゃんからタバコ屋のおばちゃんまで、「次の大河に出るんだってね!」って町中の人から声をかけられて(笑)。でも、その大河を見る前に、父はがんで亡くなってしまったんです。 60歳の若さでした。
医者から、「がんです」って告げられたときのことは、今でも鮮明に覚えています。私の脳裏に鮮明に刻まれている映像は、最初に診察室で医者と私たち家族が対面している引きの映像があって、そこから「がんです」と言う医者の口元がアップになって、私や父の手元がクローズアップされて、また全体の引きの映像に戻る。まるでドラマのワンシーンみたいな記憶なんです。ものすごく辛い瞬間だったのに、その瞬間をまるでドラマのカット割りみたいに眺めているなんて……。「私、ドラマに毒されてるのかな」と思いました。女優であることに酔ってるんじゃないかって。
「オムレツ食べたい」と父が…
父の闘病中は、河田町にある東京女子医大に、暇さえあればお見舞いに行っていました。あるとき「オムレツ食べたい」って言うので、病室に電気コンロを持ち込んで、オムレツを作ったこともあります。でも、父は、「いい匂いだ」「美味しそうだ」って 口では言うけれど、結局それを食べることはできなかった。弱っちゃった父を見るのは辛かったけど、その日は父の隣のベッドで寝させてもらって。そうしたら、私の寝 ているときの格好が、父とそっくりだったって、次の日の朝、母から教えてもらいました。
よく、人は「死」を二度経験すると言われます。一度目は、文字通り肉体的な死。もう一つの死は、人から忘れられてしまうこと。記憶の中の死です。 77 歳は、まさに死が身近にある世代ですが、これまでにたくさん、人生の先輩たちによくしてもらっ たからこそ、そのかたたちが残してくださった古き良きものを若い人に語り継ぐとい う役目も担っているのかもしれない。老害と言われてもいい。私はこれからも、私が 大好きだった人の話を、たくさんたくさんしていきたいと思います。