今から33年前、1992年4月25日、26歳の若さで旅立ったシンガーの尾崎豊さん。妻の尾崎繁美さんは、18歳で尾崎さんと出会い、20歳で結婚。21歳で息子・裕哉さんを出産し、24歳で最愛の夫と死別するという想像を絶するような凄絶な別れを経験しました。そのときの想いや尾崎さんとの想い出を豊さんの没後30周年を機に、封印を解くように連載『30年後に語ること』として発表しました。その後、2023年7月からは、豊さんが旅立った後、息子の尾崎裕哉さんとともに二人で渡米し、ともに暮らしたボストンでの母子留学の日々について『笑顔を守る力』として定期的に寄稿いただいています。
前回、裕哉さんが14歳の誕生日のとき、家族でカラオケに行った際、突然、尾崎豊さんの『十七歳の地図』を歌った衝撃について寄稿いただきました。繁美さんが知らぬ間に、父親の曲を全曲、ブレスのタイミングまで合わせて歌えるようになっていた裕哉さん。今の裕哉さんのシンガーソングライターとしての活動の原点ともいえる出来事であり、繁美さんにとっても大きな転機となった衝撃的な出来事になったといいます。この出来事をきっかけに、ボストンから東京に戻ることを決心した繁美さん。11年ぶりに戻った東京。裕哉さんは、アメリカンスクールに入学し、バンド活動を始めました。
新たな生活は順調に始まりましたが、その中で、繁美さんと裕哉さんはある悩みに直面します。ボストンとは異なる誰もが知る「尾崎豊」の中で生きること。そして、音楽という道を選択すること。自分たちの思いや意志とは異なる形で捉えられてしまう可能性もある中、どう息子と夫の尊厳を守れるのか。そんな繁美さんと裕哉さんの想いをお伝えします。
以下より、尾崎繁美さん自身の寄稿です。
息子と音楽の出会い
ボストンでの11年間の生活を終え、東京に戻り、編入先のアメリカンスクールでバンド活動を始めた裕哉。
彼はボストンで、小学3年生の頃からピアノを習い始めました。帰国後もボストンで知り合った友人が偶然にもアメリカンスクールの生徒を中心にピアノを教えていたことがわかり、週に一度お願いしてレッスンを続けていました。
ギターとの出会いは、小学5年生のとき。何かに目覚めたかのように「習いたい」と急に言い出したので、バークリー音楽大学でギターを専攻していた方に個人レッスンを何度かお願いしました。ただ、本格的にギターを弾くようになったのは、ボストンの寄宿舎に入ってからのこと。ギターに夢中な仲間の影響を受けたようでした。
寄宿舎で共に過ごす時間の中で、裕哉も自然と洋楽に惹かれていき、そういった何気ない日常の中で、彼の中の”音楽”という感覚が芽吹き始めていきました。
父の歌を歌わなくなった息子
そんな裕哉が、新しい学校で友だちに誘われ、バンド活動を始めました。担当が「リード・ギター」と聞いたとき、私は思わず「なんでボーカルじゃないの?」と尋ねたのです。歌うことが好きな息子がなぜボーカルではないのだろう?
本人は「ギターの募集だったから」と淡々と答えていたのですが、私はその一言に「なるほどね」と頷きながらも、何か余韻を残すような、母としての勘がかすかに反応したのを覚えています。
振り返ってみると、あの頃の裕哉は、あえて”歌うこと”から少し距離を置いていたのかもしれません。リード・ギターという立ち位置は“尾崎豊の息子”ではなく、“尾崎裕哉”としての自分を探すための居場所だったのだと今は思うのです。ステージ中央ではなく少し斜め後ろの場所から仲間たちを見つめるそのポジションが、当時の彼にとっては心地よかったのでしょう。
そして、これは後になって知ったのですが、「尾崎豊の息子が音楽をやっている」と見られることへの恐れがあり、最初はバンドへの参加をためらい、何日も迷っていたそうです。
知らなかった息子の心
息子がアメリカンスクールに通い始めた頃、毎日「楽しい」と笑顔で帰ってくる姿を見るのが、私にとって何よりの喜びでした。ですが、その笑顔の奥でどんな想いが揺れていたのか……。
“父・尾崎豊”という存在をどう受け止め、“尾崎豊の息子”としての自分とどう折り合いをつけていたのか。その時の私は、まだ知る由もありませんでした。
私が気にかけていたのは、むしろ日本語のことだったのです。5歳からボストンで育ち、ずっとアメリカンスクールで学んできた息子は、英語ではのびのびと世界を描けても、日本語になると、言葉の輪郭が少し曖昧になる場面がありました。
言葉はその人の心を映す鏡です。ひとつひとつの言葉が自分の中でしっかりと息づいていなければ、浮かんだ情景を言葉に置き換えたり、歌詞の奥にある感情の揺らぎを受けとることもできません。父の楽曲を理解するうえでも、日本語そのものの感性が育っていなければ本質に触れることもできない……。母国語で“感じる力”を取り戻すことが大切だと思い、何より日本語の”学び直し”に力を注ぎました。
私は、日本語をただ「直す」というより、彼の中に眠っている言葉の力を「育て直す」ことを意識しました。言葉の根がしっかりと張れば、その先にある“表現”という枝葉もきっと伸びてゆくのではないかと。そんな思いを持ちながら、おぼつかない日本語を話す息子に家庭教師をつけ、日々の会話の中でも言葉を整えていくことが母としてできる小さな手助けでした。
息子の父への想い、母の息子への想い
アメリカンスクールという個性を大切にしてくれる環境に恵まれ、“今しか経験できない、かけがえのない時間”をのびやかに味わってほしい。それが、あの頃の私の息子に対するいちばんの願いでした。
「何者でもない自分」は、「何でもできる自分」
誰かと比べることも、急ぐ必要もない……自由な心で世界を見つめ、自分だけの色を見つけていってほしい。そんな想いで息子の日々を見守っていました。そして心の奥のどこかでは、いつか裕哉にも、父が生涯をかけて向き合った、”自由” ”真実” “生きる”という問いと向き合う日が来るであろうと感じていたのです。
でもその問いを、父・尾崎豊の形のまま背負わせたいわけではありません。私が願っていたのはただひとつでした。「父の光とは別に、自分の光を信じて歩んでいってほしい」ということです。
豊の遺したテーマは普遍的なので、いつか息子の人生にとってもひとつの”バイブル”のように共鳴するときがくるでしょう。それは、重荷ではなく、時に道しるべのように支えてくれるはず……。
けれど、彼自身の心を照らすのは、あくまでも彼の中に生まれるものであってほしい。その答えは、誰かに与えられるものではなく、自分自身の歩みの中で、少しずつ形を変えながら見えてくるもの。だからこそ私は、息子が自身の人生の中で、その問いの答えを見つけていく姿を大切にしたかったのです。
ボストンから帰国してから、息子の中にはまだ言葉にならない”音楽の気配”が確かにありました。もしそれが、「音楽で生きていく」という地図を描くのなら、”父・尾崎豊と対峙すること”よりも、”音楽そのもの”と純粋に向き合ってほしいと思っていたのです。
私はかつて、尾崎豊というミュージシャンであった夫の背中を誰よりも近くで見てきました。そして、音楽の世界には、眩しさと同じだけの孤独があり、厳しさや責任があることも知っています。
だからこそ、息子には夢を見るだけでなく、現実を生き抜くための”しなやかな強さ”を身につけて自分の足でしっかり立ってほしいと思ってきました。その積み重ねの先にこそ、彼自身の音や息づかいが真に宿っていくと信じて。
「父親のようになりたい」から始まったとしても、それだけでは届かない世界がある。音楽の道は決して甘くはないことを知っているからこそ、憧れや感情だけに流されるのでなく、”音楽そのもの”と誠実に向き合う機会を与えてあげたいと思い、帰国したばかりの夏でしたが、迷うことなく16歳の裕哉をバークリー音楽大学のサマースクールへ送り出しました。
「尾崎豊の息子」ということ
のちに裕哉の著書『二世』の中で裕哉自身が語っているように、日本に帰国したことで、「父・尾崎豊という存在をどう受け止めるのか」の問いは、より深い戸惑いへと変わっていったのかもしれません。
あれほど憧れていた父なのに、いつしか“尾崎豊の息子”という言葉を少しずつ避けるようになっていったのは、父が誰なのかを知られてしまうことで、「自分」という存在そのものが、父の影に塗り替えられてしまうのではないかと、そんな息苦しさを抱えていたのだと、彼は明かしています。
音楽の道を選ぶという選択は、同時に”父の影”と向き合うことを意味し、避けて通れません。自分の中に宿る“尾崎豊”を、どう抱きしめ、どう昇華し、自分の光へと変えていくのか。その果てしない問いに向き合うのは、まだ15歳の少年にとっては、計り知れない試練だったと思うのです。
だからこそ私は、裕哉が「尾崎豊の息子」という肩書の外側で、自分らしく、のびやかに呼吸できる場所があってほしいと、いつも願っていました。誰かと比べず、背伸びもせず、彼の中に宿る光が、ありのままに輝けるように……。自分のリズムで瞬ける環境を選ぶことを大事にしてきました。
人は誰しも、心にそれぞれの影を抱えながら生きています。けれど、その影があるからこそ光は優しく強くなるのだと。影を知る人だけが、光の温かさを深く受け取ることができるのだと思うのです。そう信じていたので、息子がどんな影と向き合おうとも、その歩調と歩幅を尊重しながら、”尾崎裕哉”というひとりの人間が、自分の光と音を見つけていく姿を見守ってきました。
日本に帰国する決心をしたあの日、これからの生活には、きっと今とは違う不自由さもあるのだろうという不安は確かにありましたが、それでも、その不安を抱えたままでも進みたい未来がありました。新しい場所で描かれる景色を息子と一緒に感じたいと思ったのです。
「大丈夫、きっと新しい風が吹く……」
空を見上げると、いつでも豊が励ますように囁いてくれている気がしました。
過去に背を向けるのではなく、未来へ向かうために。その新しい1ページを、自分たちの手で綴っていきたい、そんな気持ちで決めた帰国でした。
◇後編『「父・尾崎豊と同じ道に」息子・裕哉の夢に揺れた母・繁美。有名ミュージシャンの助言の影響』では、将来音楽活動を考え始めている裕哉さんが感じたスーパースターの「二世」であることの重圧や悩み……そして、そういった状況について繁美さんはある有名ミュージシャンの方に悩みを打ち明けたといいます。そのときのいきさつなどを含めてお伝えします。