「昭和」とは、いったいどんな時代だったのか——。
直木賞作家・奥田英朗さんが、執筆期間約10年、原稿用紙約3000枚を費やした『普天を我が手に』三部作は、「昭和」という時代をまるごと「小説」で描き出した超弩級の作品です。現在は第一部、第二部が発売中で、第三部も年内に発売予定です。
本書では、わずか7日間しかなかった「昭和元年」に生まれた4人の主人公が、史実にもとづくさまざまな事件に巻き込まれながら、それぞれの立場で日本社会を生き抜くさまが描かれます。その姿から浮かび上がってくるのは、「昭和という時代」の本質です。
たとえば、主人公の一人・四郎は、金沢で侠客一家を束ねる矢野辰一に養子として迎えられました。
第一部では、一家を治めながら、徐々に軍部と結びついた右翼の有力者として担ぎ出される辰一の困惑が描かれます。
『普天を我が手に 第一部』から、太平洋戦争の開戦を控えて自粛ムードが高まるなか、辰一が加賀温泉で賭場をひらいたことで特別高等警察に捕まってしまうシーンを、抜粋してお届けします。
**ここから引用**
二時間ほど盆が進み、そろそろ中休みを入れようとしたときだった。中庭で足音が聞こえ、誰かいるのかとそちらの方角に目をやったとき、同時に渡り廊下で大勢の足音が太鼓のように鳴った。
賭場にいた全員が動きを止め、腰を浮かしかけた。襖がバタンと開く。目に飛び込んだのは背広姿の男たちだった。
「警察や! 賭博の現行犯で全員逮捕や!」
先頭の男が顔を真っ赤にして叫ぶ。続いてどやどやと男たちが部屋に入って来た。電球が大きく揺れ、難破船のように人の影が右往左往する。
「おい待て。おのれらどこの警察署や」
辰一が立ち上がり、困惑しながら聞いた。石川県の警察なら、自分に対してこんな真似をするはずがない。
「県警察部特別高等警察課じゃ! お国が大事なときに、よくものうのうと博打なんぞ打っとれるな。おまえらは全員非国民じゃ!」
特高の刑事は盆茣蓙に土足で上がり、警棒を振り回した。
「おい。おんどれ、わしの盆に何ちゅうことを……」
辰一は一気に頭に血が上り、刑事につかみかかろうとした。
「親分、待ってくれ!」湯川が立ちはだかり、辰一を押しとどめた。「あかんて、あかん。特高相手に逆らったらあかんて」
「何が特高や! おのれら、わしが愛宕のヤノタツと知ってのことか! ただでは済まさんぞ!」
「逮捕! 逮捕!」
辰一の啖呵は刑事の声にかき消され、乱暴に手錠をはめられた。若い刑事に、壁に押し付けられる。
「全員、これより金沢の県警察部に護送する。その前に手荷物はすべて提出すること。連絡は不許可。それから旅館の責任者はおるか──」
刑事の言葉が、辰一の耳を素通りする。辰一は怒りの感情に突き上げられながらも、どこか現実感に乏しかった。石川で、このヤノタツが、逮捕される? 何やら夢を見ているような気分だったのだ。
翌朝、金沢警察署の留置場に元署長の山田茂吉がやって来た。警察幹部のくせに辺りを憚るように身を屈め、「親分、すまん」と開口一番言った。
「東京から乗り込んで来た検事正がおって、階級が上過ぎて、わしらではどうにもならん。最初から矢野の親分を挙げる気でおった。あんたは狙われとったんや」
「なんでわしを狙う。わしは功労者やが」
辰一は改めて怒りがこみ上げ、つばきを飛ばして言い返した。
「わしにはわからん。とにかく、うちの人間では釈放できんから木下さんを呼んだ。今日中に東京から駆け付けるそうや。あの人なら政友会の政治家を動かせるし、元々は内務省の役人やさけ、検事を抑えられるやろう」
「ほかの連中はどうしとる」
「博打の客は略式で罰金刑。そやさけ湯川社長はもう出とる。加賀温泉のやくざと旅館の経営者は起訴を免れんやろな。北國新聞に大きな記事で出てしもうた。簡単には揉み消せんちゅうことや」
「あんたら、東京から来たよそ者の検事に好き勝手させて、それでええんか」
「ええわけはないが、時期が悪い。〝ぜいたくは敵だ!〟運動の最中、芸者を揚げて博打を打ってましたでは世間も黙っとらん。今は香林坊を若い娘が髪にパーマを当てて歩いとるだけで市民から非難の声が上がるくらいや。頭低くして、時間が過ぎるのを待つしかない」
「あほらしい」
辰一は鉄格子を蹴り上げた。留置場に入れられるのは、一家を構えてからは初めてのことだった。屈辱で胃が焼けそうである。
「取り調べでは、おとなしゅうしとってくれ。あとはなんぼでもわしらで助ける」
山田茂吉はそれだけ言うと、握り飯を差し入れて去って行った。
**引用ここまで**
奥田 英朗(オクダ ヒデオ)
1959年岐阜県生まれ。プランナー、コピーライターなどを経て1997年『ウランバーナの森』でデビュー。第2作『最悪』がベストセラーに。2002年『邪魔』で大藪春彦賞を受賞。2004年『空中ブランコ』で直木賞、2007年『家日和』で柴田錬三郎賞、2009年『オリンピックの身代金』で吉川英治文学賞を受賞。ほかの著書に『リバー』、『罪の轍』など。