2025年6月3日に惜しまれながらご逝去された昭和の大スター、長嶋茂雄さんの“お別れ会”が、本日11月21日に東京ドームにて開催される。通算444本塁打を放った大打者でありながら気さくな人柄で愛された彼は、38歳で現役を引退した際、本誌でその思いの丈を綴っていた。
彼の手記で赤裸々に語られた、現役最終打席での心境、引退を決めた理由、そして盟友王貞治さんとの思い出とは…。
週刊現代1974年10月31日号の記事を再編集して3回にわたってお届けする。
第2回
前回記事『≪追悼≫長嶋茂雄さんの現役時代の「手記」を大公開…併殺打に終わった現役最終打席での心境』より続く。
「きょうだけはテレビもつけないでおきますわ」
出がけに、ぼくは女房の亜希子にきいた。
「きょう、見にくるかい?」
最後にぼくのユニホーム姿を見たのは、たしか四十年の日本シリーズだった。それから九年。彼女は球場には一度も足を運んでいない。
背番号3を見るのは、彼女にとってこの日が最後のチャンスとなるはずだった。が、亜希子は黙って首を横に振った。
「テレビで見るのかい?」
「いえ。きょうだけはテレビもつけないでおきますわ。ベストをつくしてきてくださいね」
長男の一茂も、この日が父親にとって最後の公式戦となるのを知っていた。
「パパ。ヒットを打ってね」
一茂は、奇妙に大人びた表情でぼくの顔をみつめ、元気よくランドセルを背負って外へ飛びだしていった。
朝の食卓には、いつもと同じように亜希子が自分で焼いた暖かいパンが載っていた。赤飯も、お頭つきのタイもなかった。
ただ、生けかえたばかりの真紅のバラが、ぼくの、いや、ぼくたちの新しい門出のために食卓のまわりを飾っていた。
老いていく肉体
ぼくがプレーヤーとしての限界を悟ったのは、つい一年前のことだった。それまでは楽に処理できたゴロの打球が、もうあと数センチというところで捕れなくなったり、やった!と思った当たりが野手の真正面をつくようになった。
ナイターの光線を長時間浴びていると、ボールがなんとなく歪んで見えるようになり、朝起きても目ヤニが溜まっているようになった。気持ちは人に負けないつもりでも、いつかじわじわと年齢という名のハンデがのしかかってきていたのだ。
いくらマッサージしてもらっても、前日の疲れがとれなくなったり、足がめっきり遅くなったのが自分でもわかってきた。
ぼくは自宅の地下につくった小さなジムで、一日五十回をノルマにしたナワトビを始めた。腹筋運動もへとへとになるまでやった。
が、そんなことは人にいうことではない。つねにベストの状態でプレーするのが、プロフェッショナルとしては当たり前のことだった。
ぼくはつとめて明るく振舞い、老いていく肉体のことを忘れようとした。終身打率やなにかは問題ではなかった、記録のことはもう頭から切り捨てていた。肉体の限界までたたかい抜いてて、それでもしグラウンドで倒れたとしても、ぼくには文句がなかった。
引退を決めた理由
スタンドの熱い拍手。「ナガシマ!」と叫んでくれる少年ファンの声。それが続く限りはせい一杯、自分のすべてをさらけだしたかった。
しかし、去年のシーズン末あたりから、スタンドの反応が微妙に変わりつつあるのをぼくは肌で感じていた。拍手はもう期待の拍手ではなく、燃えつきていくぼくへの惜別の拍手であり、同情の拍手となってきつつあった。
引退まで一年間と自分で線を引いたのは、もしも監督となった場合のことを考えたからだった。ベンチを暖め、代打に出るという経験も、ぼくには予測していたことだった。
それでいい、むしろその方がいい、と思っていた。一度は敗残のみじめさを身をもって味わっておくことが、将来のぼくにとっては必ずプラスになるはずだった。莞爾として苦境を受け止め、それをはね返してみたかった。
川上監督も、ぼくの気持ちはわかってくれたと思う。人間、いいときばかり続くものではない。プレーヤーとしてきわめて恵まれた環境におかれていたぼくに、一年間の挫折を味わわせるため、川上さんもときには心を鬼にしたことだろう。
次回記事『≪追悼≫長嶋茂雄さんの現役時代の「手記」を大公開…盟友・王貞治も涙した感動の「引退試合」の記憶』へ続く。
「週刊現代」1974年10月31日号より