2025年6月3日に惜しまれながらご逝去された昭和の大スター、長嶋茂雄さんの“お別れ会”が、本日11月21日に東京ドームにて開催される。通算444本塁打を放った大打者でありながら気さくな人柄で愛された彼は、38歳で現役を引退した際、本誌でその思いの丈を綴っていた。
彼の手記で赤裸々に語られた、現役最終打席での心境、引退を決めた理由、そして盟友王貞治さんとの思い出とは…。
週刊現代1974年10月31日号の記事を再編集して3回にわたってお届けする。
第1回
現役最終打席
一基、また一基と照明灯がついた。秋の陽は刻一刻とたそがれの色を濃くしながら、西に沈みつつあった。
昭和四十九年十月十四日。ついにV10の夢が消えたシーズン最後の公式戦に、いよいよぼくの現役最後の打席がまわってきた。
ぼくは持ち慣れたルイスビル製のバットを握りしめて、ネクストバッターズ・サークルから歩きだした。十七年間、こうしていったいどれくらい打席に立ってきただろうか。
もうぼくに公式戦の打席は永久にまわってこない。白いボールのただ一点だけを狙って神経をとぎすませるのも、もうこの打席が最後だった。
残照がまだ残っている外野スタンドをみつめ、マウンドの上の若い中日の投手の顔をみつめ、ぼくは一度大きく息を吸った。最後の最後まで、堂々と胸を張って相手に立ち向かっていこう、たとえそれがどんな凡ゴロに終わろうとも、懸命に駆けていこう。そうぼくは思っていこう。───そう僕は思い、いつものようにバットを構えようとした。
併殺打に終わる
一塁キャンバスから二十メートルは駈けたろうか。駈けながら、ぼくは違い外野スタンドが涙でにじんでいくのを感じた。
最後の一撃がショートゴロの併殺打に終わったことへの口惜しさからではない。最後の最後までオレは全力で戦ったぞという爽やかな充実感だった。
結果はあるいはみじめな併殺打だったかもしれないが、ぼくはせい一杯の力をだしつくした。
この最後の日のダブルヘッダー第一試合では四打数三安打。プロ入り通算四百四十四本目のホームランも打ち、ぼくは体を熱くしながら守り、かつ走った。三十八歳のぼくとしては、根限りの力をふりしぼったつもりだった。
涙でかすんだ視界の中で、ぼくははるかなホームベースのほうを振り返った。そのとき、ぼくはいっせいに巻き起こる拍手の音を聞いた。
一塁側スタンドはもちろん、中日ファンの多い三塁側のスタンドも、そして外野のスタンドも、それはこれまでにかつて聞いたことのないほどのすさまじい拍手だった。拍手の波はぼくの体をつつみ、消えることなく続いた。きのうまで敵味方にわかれて死闘をくりひろげた中日ベンチからの拍手もまじっていた。
「打たれてもいいぞ」
だれかがマウンドの佐藤にどなった。
ぼくは打席をはずして、中日のベンチのほうを振りむいた。
気持ちはうれしかったが、真っ向から堂々と勝負してほしかった。ヒットなんか出なくてもいい。同情してもらいたくはなかった。
一球ファウルしたあとの二球目、佐藤のストレートは低めに伸びてきた。ぼくは力いっぱい振った。駆けだした。
懐しいスタンドのどよめきがぼくを包んだ。ショートの三好が体を翻し、二塁へトスするのが見えた。セカンドの西田は、その最後のボールを一塁に送った。
ぼくは駆け、右足が一塁キャンパスを蹴るのを感じ、富沢塁審が右手を高々と上げるのを横目にみながら、さらに駆けた。
泣くものか、と誓っていたが…
かつて十七年前、あの白いホームベースのそばで、ぼくは金田さん(当時ロッテ監督)の快速球に立ち向かっていったのだった。プロ入り最初のその試合で四打席四三振にキリキリ舞いさせられてから、きょうで二千百八十六試合───。あの場所で、ぼくはタイガースのルーキーだった村山から天覧試合でのあの劇的なサヨナラ・ホーマーも打ったのだ。
が、もうぼくはあの場所にバットを構えて立つことはない。ぼくはそういう感傷を振り払うために二、三度首を振り、ベンチに戻った。球場全体が拍手と歓声で埋まっているようだった。これまでに、だれがこれほどの熱っぽい惜別のどよめきに送られて、引退の花道を去っていっただろうか。
ベンチへ向かって駆けだしながら、ぼくはなんともいえない幸せにつつまれ、体の奥から新たに熱いものがこみあげてくるのを感じていた。
あれほど泣くものか、と誓っていたのに、とめどなく涙はぼくの頬を伝わった。目のあたりをぐいとこぶしで横なぐりして、ぼくは最後の守備が待っている方角へと駆け戻った。
次回記事『≪追悼≫長嶋茂雄さんの50年前の「手記」を大公開…ミスタージャイアンツが「現役引退」を決めた理由』へ続く。
「週刊現代」1974年10月31日号より