なぜ国力差のある長期総力戦は可能だったのか。金融による「国力の水増し」はいかにして行われたのか。
未曾有の戦争の「舞台裏」には、銀行員(バンカー)たちの奮闘があった。注目の新刊『太平洋戦争と銀行』では、植民地経営から戦費調達、戦争の後始末まで、お金から「戦争のからくり」を解き明かす。
(本記事は、小野圭司『太平洋戦争と銀行――なぜ日本は「無謀な戦争」ができたのか』の一部を抜粋・編集しています)
資源開発と軍票の回収:東南アジア
米国統治下にあったフィリピン、オランダの植民地であったインドネシア(蘭領東インド)、英国が統治していたビルマでも、開戦と同時に日系銀行は接収され、日本人は抑留された。
昭和17年1月に日本軍がマニラを占領すると、逆に米英系銀行の接収が始まる。台銀は1月24日、正金銀行も1月25日にマニラ支店を再開した。
フィリピンでは、日本軍の上陸後に奥地に退避した米軍は現金不足に陥り、フィリピン政府に「緊急紙幣」(政府紙幣)の発行を命じた。とにかく現金が足らず紙幣の質は後回しとなったので、非常に粗末な紙幣となったが、敗退中の米軍としては「現金が無いよりまし」だった。日本の軍制下のフィリピンでは、ペソ建ての日本軍票が使われた。
インドネシアのジャワ島では、昭和17年3月7日に日本の軍政が始まった。インドネシアは経済規模も大きかったことから、既に流通していたジャワ銀行券(中央銀行券)、政府紙幣と並行する形でギルダー建ての日本軍票が使われた。開戦直後、オランダ政府に接収されていた正金銀行と台銀も5月10日にバタビア支店を再開する。日本の軍政当局はバタビアの名称をインドネシア語のジャカルタに改めたので、両店も「ジャカルタ支店」に改称した。
ビルマでは、昭和17年3月8日に日本軍がラングーン(現:ヤンゴン)を占領した。開戦と同時にビルマ官憲によって接収された正金銀行ラングーン支店も、4月15日には再開となった。そしてビルマでも旧通貨と日本軍票(ルピー建て)が併用された。
東南アジアの軍政・軍票適用地域(フィリピン、マレーシア、インドネシア、ビルマなど)が広がるにつれ、占領地での資源開発・物資調達に必要な資金の供給と、各地域での通貨・金融制度の維持を図る必要が出てきた。前者は陸海軍、後者は大蔵省が要望したものだ。
このため昭和17年2月に公布された「南方開発金庫法」に基づく特殊銀行として、翌月に「南方開発金庫(南発)」が設立された。金融機関の看板を持つが、実態は南方軍政のための特別会計に近い存在だった。
官僚組織の常で軍部と財政当局の間で主導権争いが生じたが、ここは大蔵省に軍配が上がる。東京に本金庫、シンガポール、マニラ、ジャカルタ、ラングーンなどに支金庫が置かれた。
大まかに言うと、南方では正金銀行や台銀などが商業金融・貿易金融、南発は産業金融を担った。南方の占領は資源獲得が大きな目的であり、南発にはそのための投資用長期資金の提供が求められたわけだ。そこで南発には金融債発行が認められた。
「金融債」とは日本独自の債券で、特殊銀行などが長期資金調達のため発行した利付債券だ。設備投資の原資となり、主に民間銀行や保険会社、逓信省(郵便貯金)が購入した。銀行預金や郵便貯金などの流動的な資金は、これによって長期資金に転換された。
また南発には昭和18年4月からの通貨発行(南発券)が認められ、これで軍票を回収することで現地での通貨制度の維持を図った。しかし実際には軍の要請優先で融資・通貨発行が増大し、現地でのインフレを後押しすることになった。
つづく「身柄拘束、船は沈没…ニューヨークやロンドンで銀行員に起きたこと」では、米国でも日系銀行は接収され営業許可は取り消しとなり、行員たちは連邦捜査局(FBI)に検束された実態をくわしく見ていきたい。