2025年6月6日の公開以来次々と記録を塗り替え、11月25日にはついに邦画実写の歴代興行収入ランキング1位となった映画『国宝』。名門の「血筋」という見えない枷に苦悩しながらも頂点を目指す主人公の姿に胸を打たれた方も多いのではないか。
そんな主人公には、モデルと噂される歌舞伎役者がいる。大塚の料亭という歌舞伎とは無縁の家庭に生まれながら伝統と格式を重んじる歌舞伎界に身一つで飛び込み、「人間国宝」にまで上り詰めた“稀代の女形”坂東玉三郎だ。
歌舞伎で国際的に評価を受けながらも、映画監督、舞台演出とあらゆるジャンルに挑戦した彼の真意、そしてあまり語られることのない生い立ち・私生活を「週刊現代」1992年5月23日号より再編集してお届けする。
第1回
情熱を燃やす、映画の監督業
「映画は好きです。あの映画ならではの撮影現場が好きなんです」
坂東玉三郎は、この言葉通り、いま、映画の監督に情熱を燃やしているようだ。
■監督第2作
取材当時、玉三郎は現在監督第2作目の『夢の女』を撮影中。これは永井荷風の原作で、主演は第一作『外科室』と同じ吉永小百合(共演は樹木希林ほか)。翌年(1993年)公開予定の作品だ。5月5日も千葉県八日市場市のロケで精力的に撮影に取り組んでいた。
■『外科室』のヒット
初めて監督を手がけた『外科室』は、上映時間50分、入場料1000円という興行ながら、配収7億円の大ヒット。製作費1億5000万円からすると大成功だし、映画監督としても非凡な才能を示した。
■眼が離せない
「『外科室』は独特の“呼吸”で作っていて、興味が持てた。この映画で見せてくれた可能性を、もっと活かして、もっと演劇的な映画を撮ってほしい。ここ10年は玉三郎さんの時代になるかもしれませんよ。眼が離せないですね」(映画評論家 白井佳夫氏)
“本職”の歌舞伎でも国際的な評価は高まるばかり
■ノミネート
玉三郎は英国の90年ローレンス・オリビエ賞のオブザーバー紙特別賞にノミネートされたほど。これは10月、「ジャパンフェスティバル1991」の一環として英国で公演した『鷺姫』が「優雅さと詩情で観衆に喜びを与えた」と絶賛され、大きく評価されたもので、惜しくも受賞はならなかったが、“玉三郎フィーバー”はもはや日本だけのものではない。
■魅了
「玉三郎さんは数回アメリカに来たことがありますが、とても人気が高く、彼を見たすべてのアメリカ人が魅了されました。とくにアメリカ人にとって興味深いのは、男が女を演じること。日常の男としての生活から舞台での女としての振る舞いへの変化、そして男性である玉三郎さんが女性をどう理解しているか、ということですね」(エコノミスト誌などに寄稿しているライター・C氏)
■新しい歌舞伎
「とにかく彼は100年に一人の大天才です。西洋のバレエとか、あらゆるものから吸収して、新しい歌舞伎を創った。伝統芸能を中から変革した男です」(玉三郎の写真集を出している写真家・大倉舜二氏)
人生を決定づけた2つの原体験
三島由紀夫が「現代の奇跡」と賞讃した玉三郎は、いわゆる梨園の名門の出ではない。
■花街生まれ
坂東玉三郎は本名・守田伸一(旧姓楡原)。1950(昭和25)年4月25日、東京・大塚の料亭に生まれる。男ばかり7人兄弟の末っ子。生まれたときから着飾った芸者たちに囲まれ、娘を待ち望んだ両親に女の子のように育てられたという環境が、彼の美への探究そして女を演じることの原点になっている。この“三つ子の魂”が彼の人生を決定づけることになった。
そして、もう一つは彼の“不幸な病魔体験”。
■小児麻痺
1歳半のとき、小児麻痺にかかり、その後遺症はいまも右足に残っている。
■踊りの稽古
「足の訓練の意味もあって、踊りを習わせるようになったんです。もともと踊りが好きな子でしたからね。ウチに芸者さんがあがるとね、芸者さんが三味線弾いたり、踊ったりするのを障子の陰からじっと見て、あとでマネるような子でした。物心つくかつかないかの頃から、そんなことをやっていましたよ」(実母の楡原喜美江さん)
■6歳で入門
14世守田勘弥の夫人、藤間勘紫恵に入門。
■初舞台
7歳のとき『寺子屋』の小太郎役で。
■学歴
巣鴨小学校から私立聖学院中学・高校へ進む。
■どじょうすくい
「中学1年の秋の文化祭では、玉三郎さんが指導して確か7人ぐらいで踊りをやったんです。北海道のソーラン節から始まって、どじょうすくいまでやって、これがまたすごくうまいんですよ。誰かがおカネをひねって舞台に投げたっていうくらい(笑)。すごい人気でした」(聖学院の恩師・岸本テル元教師)
■芸養子
14歳のとき、守田勘弥の芸養子になり、聖学院は高校2年で中退。本格的な芸道修業に入った。
■玉三郎襲名
’64年、5世坂東玉三郎を襲名。
伝統と格式を重んじる歌舞伎界で、名門の御曹子でもない玉三郎がクローズアップされたのは’70年のこと。1月の国立劇場で『大商蛭子島』の北条政子役を演じた玉三郎を観て、三島由紀夫が感激し、自作『椿説弓張月』に起用。
神がかりともいえる美貌とほっそりとした妖しい姿態、工夫されたせりふ回し。その妖艶、華麗な女形ぶりは、異常なほどの“玉三郎ブーム”を巻き起こし、歌舞伎の長い歴史の中でも稀有な人気女形となった。
「週刊現代」1992年5月23日号より
『“客に笑われた”若手時代を経て「人間国宝」に…映画『国宝』のモデルにもなった坂東玉三郎とは何者なのか』へ続く。