都内の新築分譲マンションの平均価格が過去最高値となっている。
株式会社不動産経済研究所が発表した報道資料によると、2025年度上半期の販売価格は9,489万円で平米単価143.1万円。いずれも最高値を大幅更新し、定期借地権付き物件に至っては1億846万円で平米単価155.8万円となっている。
売値だけではない。
旭化成が調べた賃貸物件の家賃推移をみると、2015年を100として30平米以下の家賃が121%、50~70平米のファミリータイプに至っては147%と、賃料も過去最高値を更新しているのだ。
では「貸す側」はどうしたらいいのだろうか。
作家の町田哲也さんは、ある年の正月、当時76歳の母がひとりで暮らす戸建ての家の床が傾いていることに気がついた。そこから母の終活のためにも別の場所に土地を購入し、アパート経営をすることに決めたのだ。
その様子をドキュメントでお伝えする連載「終活アパート」第9回は家賃と母の暮らしのことをお伝えする。
2020年からの物価上昇の影響
日本の賃貸住宅における家賃は、硬直性、つまりほとんど変わらないことに特徴があった。実際にさまざまな統計を見てみると、ここ15年間ほどのトレンドは、消費税引き上げ時の物価上昇やコロナ禍の一時的な下落を除くと、基本的に安定して推移している。
財務省の広報誌「ファイナンス」では、家賃のメカニズムを貸し手側と借り手側双方の要因から分析している(大友直人、伊藤祐嗣「我が国における家賃の動向」2024年10月)。貸し手からすると、日本では世帯数に比べて住宅数が多く、供給超過の市場競争のなかで家賃を上げにくい傾向にあった。また法的弱者である借り手の生活が脅かされ、不利益を被らないように定められた借地借家法の存在も、貸し手の家賃決定における交渉力低下につながっていた。
一方借り手からすると、借地借家法に守られて居住期間が長期化しやすいうえに、長引くデフレで家賃引き上げを受け入れるだけ所得が増えていなかった。家賃が上昇するのは、入居者の入れ替え時に限られるというのが現実だったという。
この流れを変えたのが、2020年代に入ってからの物価上昇だ。貸し手は建設費や管理費の上昇を家賃に転嫁せざるを得なくなり、借り手の間では、住宅価格の上昇から代替需要として賃貸物件の人気が高まり、家賃の上昇を受け入れる雰囲気が広がりつつあった。ぼくがアパート建設をはじめたのは、このような時期だった。
数ヵ月募集し続けている物件も…
家賃の設定は、アパートの管理をお願いするD社が素案を作ってくれた。担当の倉持さんが重視したのは、家賃が上がりつつある局面だからこそ、ほかの新築物件より少しだけ安くすることだ。近隣地域にも新築アパートはあるが、もう数ヵ月募集し続けている物件も少なくないという。
「はっきりいって、家賃が高すぎるんですよ。でも都内は家賃がどんどん上昇してるんで、強気の設定に思えても、少し経つと普通に思えちゃうんでしょうね」
倉持さんは、タブレットを見せて苦笑いした。示された物件は新築にもかかわらず、空室のまま半年間が過ぎようとしていた。大家に妥協する気がないという。近隣の物件に比べると高く感じる家賃も、そのうち受け入れられると予想しているのだろうか。
「でもね、仮に家賃を月々1000円下げたとしても、4年間で4万8000円でしょ。たしかに収入は減りますけど、空室にしておくほうがもったいないですよ。いくら高く設定しても家賃が発生しないんですから」
倉持さんの説明では、多くの入居者は賃貸住宅を選ぶに際して、候補をいくつかに絞り込み、比較しながら選ぶ傾向があるという。新築物件は多くの場合、設備や機能で差は生じない。最終的に決め手になるのは立地と家賃だ。少しでも割安感を得られることが契約につながるという言葉に、経験がにじみ出ていた。
学童での仕事の「大きな変化」
5月に入り、アパート建設は大詰めを迎えていた。すでに足場は撤去し、エアコンの設置、ガス管の接続、水道メーターの設置と、外観が整えられていく、屋内も階段や壁紙の設置が終わり、洗面台、キッチン、風呂、トイレなどの設備や排水確認が進んでいた。エントランスまでのコンクリート工事が終われば、東京都の最終審査を受けるだけだ。
この頃、母の生活にも変化が訪れていた。77歳になる母は、障害児専門の学童で働いていた。児童発達支援管理責任者として、障害者学校などに勤務経験のある職員を常勤で一人置かなければならない条件を満たすための採用だったが、後任が決まったことで週3回の勤務に切り替えていた。
勤務日数が減ったとはいえ、若手スタッフと一緒に子どもの送り迎えや準備をするのは過酷な勤務だ。新しい職員の採用が進んだため、辞めようと思った母に学童の所長が示したのは、新しい事業所を作る計画だった。新規の学童にも常勤の職員が必要になるので、そちらに移れないかという。
所長は、みずから障害を持つ子どもを抱え、障害児の親が働けるようにと学童を設立した経営者だ。母としても、少しでも今までの恩を返したい気持ちがあったのだろう。いったん仕事を辞め、次の事業所ができるまで待機する形になったが、計画がうまく進んでいないようだった。
学童を設立するには、事務所の場所を確保し、スタッフを揃え、事業計画を市に提出する必要があるが、設置場所すら決まらないという。銀行の融資が受けられず、資金が足りないのだ。いつか新しい学童を開設するので、それまで待っていて欲しいという所長の言葉に、母は中途半端な日々を過ごしていた。
「あの話はなくなりました」
幕切れは呆気なかった。連絡が途絶えがちになっているのに業を煮やした母が訊ねると、所長の説明は「あの話はなくなりました」という素っ気ない言葉だけだった。話す内容をメモして臨んだが、「10分しかないので、早くしてください」といわれては、何も返すことができなかった。
「忙しいのはわかってるけど、何だかバカらしくなっちゃってね」
最近よく作るというシフォンケーキをぼくの前に置くと、母はため息をついた。アパートの進ちょくを伝えるため、ぼくは2、3週間に一回程度の頻度で朝食を一緒に食べるようになっていた。
学童を開設するために、母が何か特別な準備してきたわけではない。同僚の理想を少しでも手伝いしたいという気持ちで、いつでも働けるように待っていたのだ。責任感の強い母のことだ。誘われたにもかかわらず、何もできずにあきらめざるを得ないことに、怒りより無力感を感じていたのだろう。
予定がなくなり、いきなり与えられた自由な時間を、母はどう過ごせばいいか途方に暮れていた。自宅で庭の雑草を取ったり、生前父が過ごしていたパン工場の掃除をしたりの生活は、のんびりできるようで落ち着かないという。ジムや昔の友人と食事に行くこともあったが、気づけば自分にできる仕事がないかとさがしてしまう毎日だった。
「もうそろそろ、ゆっくりしていいんじゃない?」
「ゆっくり過ごすっていってもね、退屈なのよ」
母にとっては、誰かのために働くことが生きがいなのだ。ぼくの言葉を繰り返しては、自分を納得させようとしているようだった。
◇もともと教員で、退職後も学童で仕事をしてきたというお母さん。学童の仕事をずっとやり続けるわけにもいくまいと、町田さんは母が管理の仕事もできるのではとアパート建設を始めていた。誰かに請われ、子どもたちのために働く予定だったのが突然終わりを告げて、どうしたらいいか迷う気持ちもよくわかる。アパート建設をしていてよかったと言えるのではないだろうか。
後編「77歳母の「仕事」がなくなった…完成間近の「終活アパート」で母が口にした「父への思い」」ではそんな母親がほぼ完成したアパートを見学した日のことをお伝えする。