言葉と世界は、再発見に満ちている。芥川賞候補作家、グレゴリー・ケズナジャットさんの群像Webでの連載をまとめた初エッセイ集『言葉のトランジット』が発売され、話題を呼んでいます。著者にとってはじめての連載執筆を振り返ったエッセイを、「群像」2025年10月号より再編集してお届けします。
旅先で、日常で、物語を拾い上げる
二〇二三年の春に「群像Web」の連載エッセイの依頼を受けた。当時はデビューして二年目で、すでに何度か新聞や雑誌にエッセイを寄稿した経験はあったけれど、連載を担当するのは初めてのことだった。「物語を探しに」というタイトルが設定され、物語と移動というキーワードが緩い枠をなしたが、内容は自由だった。二年間、毎月エッセイを書き続けて発表した。
月一回締切がやってくるというのは新鮮な体験だった。どこにいても、何をやっていても、脳裏に潜んでいるその軽度のプレッシャーを感じ、どこかに今月の題材はないか、と常に問いかけていた。それまではスケジュールをほとんど気にせず、マイペースで執筆していたけれど、連載はそうはいかない。締切は書く意欲が湧いてくることを待ってくれないし、毎月書くに足る題材を探すのも仕事のうちだ。
何度か、題材を探しに旅に出た。コロナ禍で先延ばししていた旅行の計画がいくつか溜まっていたのでちょうどいい機会だった。伊豆の温泉地や函館のイベントへ向かい、父親の来日をきっかけに九州の鉄道旅をした。ベトナムの遺跡やオーストラリアの西部を訪れ、アメリカ南部の文化都市ニュー・オーリンズの街中を彷徨した。そのたびに見慣れない風景は自然に思惟に拍車をかけ、現地で見聞きしたものや思ったことを記録しているうちにエッセイのベースが自ずと出来上がった。しかし毎月旅立つことができるわけはなく、たいていは旅を頼らずに日常生活に題材を探し求めることになった。
考えようによっては、東京での日常を収めたエッセイもある種の旅エッセイとして読めなくもない。生まれ育ったアメリカを出て、日本に住み着いてからそろそろ二十年になり、もはや現代アメリカより現代日本の風習のほうが馴染み深くなっているけれど、長年ここに暮らしているとはいえ完全に同化したわけでもない。「よそ者」の眼差しはいまだ手放しておらず、普段は意識しないもののふとした瞬間、不意に周囲との距離が開くことがある。この距離は執筆するにあたって便利なものだ。たとえば道端の看板も、交差点で叫んでいる政治家も、カフェで手渡されるコーヒーカップも、ありふれた光景、当たり前なものとして受け止めず、やや距離を置いて眺めてみると、その存在自体を超えた物語が徐々に見えてくる。そのような物語を拾い上げて可視化することがこの連載での一つの試みになった。
大きな主語に還元できないものを表す
もちろんこのように異国暮らしを描いたエッセイはすでに一つのジャンルをなすくらいたくさんある。英語でも日本語でも読んできたそのようなエッセイを、この連載を書きながら思い出さずにいられなかった。参考になるところもあった。日常の出来事に対して覚えた違和感を出発点として物事を考えていくという手法を僕のエッセイでも採用している。しかし異国暮らしや異文化交流に関わるエッセイを読むときにたびたび引っかかったのは、主語が往々にして大きくなりすぎるところだ。日本だからとか、西洋だからとか、話が急に些細な日常から文化論へ飛躍してしまう。より大きな物語へと展開させていくのもいいけれど、何でも「文化の違い」や「言葉の相違」に還元させるのはあまりにも容易い。
思えば自分が日本語で文章を書き始めたとき、エッセイや論文ではなく、小説を書くことにしたのは、このような巨大な主語に囚われずに現実を描ける場として捉えていたからかもしれない。小説の言語は、文化論や政治学などの定型的な表現で覆い隠されてしまう物事を描くことに適している。連載を書く際に、エッセイの言葉で同じ効果をもたらすことが一つの課題だった。読み返すと、特に前半は、エッセイより掌編小説らしい文章がいくつかあるが、それは最初から目指した文体というより、直接的な表現を避けながら文化を語るうちに自然に現れた作風だ。
おそらく同じ理由で、個人的なエピソードが数多く登場する。自分の家族や、故郷の話がたびたび出てくるし、東京で英語と日本語を使いながら生活する様子も細かく描かれている。日本にいるアメリカ人が日本について語る、というありきたりの構図を転覆させるために、まずはそれぞれの要素を解体させる必要を感じた。自分の背景を読者と共有することでアメリカ人らしさを相対化し、日本語と英語を使う日常の現実を描くことで日本語の言説において固定された「外国人」像に多少抵抗してみた。二年前に書いたエッセイを読み返すと、その書き方には石橋を叩いて渡るような慎重さを感じるところもあるけれど、文化論に着地せずに書くスペースを切り開くために、まずそんな基礎的な作業が必要だったように思う。連載の後半では、日本語や英語の特徴など、より広いトピックを取り上げるエッセイがいくつか出てくるが、このようなものを安心して書けたのは、前半のエッセイがあってこそだ。
刊行するにあたって、このエッセイ集に『言葉のトランジット』という題名をつけた。作中に繰り返し現れる空港のトランジットラウンジの描写が、エッセイ全体の表象となるだろう。国際便の乗り継ぎで、どこか見知らぬ空港の搭乗口の前で何時間も待つときの感覚。理解どころか聞き分けることもできない声に囲まれ、時差ボケでもやっとした頭であれこれと考えを巡らす瞬間。すでに一国の出国手続きを済ませていて、まだ次の一国へは入っておらず、孤独感と解放感が綯い交ぜになった妙な感情がせり上がる。トランジットラウンジで待っている間、国家や文化などという物語に還元できないものを、もっとも身近に感じ取れるのかもしれない。それは言葉を使って表すことは極めて難しい。しかし適切な言葉を、丁寧に配置すれば、行間でその輪郭を示すことは可能なはずだ。