人気料理家、有元葉子さんによる初の旅エッセイ本が刊行されました。有元さんがこれまでに旅した国々の思い出を振り返りながら、同じ時代を生きる女性としてのエールに満ちた1冊です。タイトルは、『旅の記憶 おいしいもの、美しいもの、大切なものに出会いに』。
本書より、有元さんがイタリアで家探しをしていたときの話をご紹介します。一年をかけて、「いい物件が出てきた」と聞けばイタリアへ通い、家を見て回っていたときのこと。手続きのためにお願いした弁護士さんが興味深い紅茶の飲み方をしていていて、その独特な方法はいつしか”イタリア式レモンティ”として、有元家の定番になったのだそう。好奇心たっぷりの有元さんの様子、そしてイタリア人の愛すべき人間くささに触れてみてください。
イタリアでの家探しから
(前略) 一年という間、イタリアに通い続けて、何十軒と物件を見ても良い家がなくて、もう見つからないかもしれない……と諦めかけていたときに出会ったのが、今住んでいる家です。石造りの古い街のメインストリートからちょっと奥に入った、坂道の路地にひっそりとある建物です。家を見に行ったときは秋で、入り口から玄関までの細長い庭に、紅葉したぶどうの蔓が絡まっていました。その様子に惹かれて「あ、この家だわ」と思った気がします。
中に入ると(中は荒れ放題でしたけれど)、西側にあるベランダからの景色が素晴らしかったのです。煉瓦屋根の建物が並ぶ、まるで童話の世界のような街並みの向こうにオリーブの畑が広がっていて、空がとっても広い。この景色を見ながら暮らせたら、どんなに気持ちがいいだろう……って。それで元は修道院の一部だった、14世紀の建物の家を買うことにしました。1995年のことです。
さてイタリアで家を買うには、住民登録番号のようなものを取得しなければならず、面倒な手続きがいろいろあるので、外国人の私は弁護士さんにお願いしました。弁護士さんは、フィレンツェの近くのプラートという街に住んでいる人でした。
弁護士さんと一日中一緒に動いて、役所をはじめあちらこちらへ行き、必要書類を集めました。彼とは何語で話したのだったか……。当時の私はまだイタリア語はさっぱりでしたから、向こうにいて、とにかく差し迫った目の前のことで意思の確認をしなくちゃならないとなると、何語であってもとりあえず通じればいいみたいな感じで、なんとかなるものです。だから海外でも、言葉については考えなくてもいい、というのが実感です。とにかく言いたいこと、自分がどうしたいのかという意思をもつことが大切です。
一日中、弁護士さんと一緒にいるので、ふたりでバールでお茶したりもします。イタリア人はみんなコーヒーが大好きなのに、彼が注文したのはレモンティ。「こういう人もいるのね」と思って見ていると、運ばれて来たのは半分に切った大きな皮つきレモンと、紅茶の入ったポット、それに空の大きなマグカップです。
「イタリア式レモンティ」の作り方
彼の紅茶の飲み方は興味深いものでした。まず、カップにレモンと砂糖を入れて、それをスプーンでガンガンつぶす。そこへ熱い紅茶を注ぐのです。わあ、おいしそうと思って感心しました。さすがレモンの国ね、と。ちなみにイタリアは硬水なので、紅茶も日本茶もあまりおいしく淹れられません。それでもフレッシュなレモンの果汁たっぷりのレモンティなら、疲れが吹き飛ぶおいしさです。
彼のようにレモンティを飲む人を、イタリアでもほかに見たことがないけれど、うちではこの飲み方が定番となりました。私は半分に切ったレモン(皮つきですから国産に限ります)とはちみつをたっぷりと大きなカップに入れて、スプーンでつぶしてから熱い紅茶を注ぎます。お世話になった弁護士さんに敬意を払って「イタリア式レモンティ」と呼んでいます。
弁護士さんの助けを借りて、めでたく家の契約手続きとなった日。村の公証役場のようなところへ行くと、家の元の持ち主が、小さな子どもからお年寄りまで、なんと家族総出で集まっていてびっくりしました。
さらに驚いたのは、契約が終わり、家の修復作業が始まってからも、家の元の持ち主の女性がいきなりやってきたこと。ドアを開けるとその女性が立っていて、「ボンジョルノ」と言って、家の中に入ってきたのです。自分のかつての家がどんなふうになったのか、見たかったのでしょう。彼女は何度もやってきて、そのたびに「私はここに40年住んだのよね」と言って涙をこぼします。そして「また来てもいい?」と。私はもちろん、いつでもいらっしゃいと伝えました。家を売ったことが寂しいというよりも、この家で過ごした良い思い出に浸るためにやってくるようでした。
こんなふうにイタリアの人たちはユニークで、人間っぽいというか、どこか愛らしい人たちが多くて。だから、この国では面白い体験をたくさんしました。
構成(書籍)/白江亜古
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有元さんの旅の話からは、人生後半に差し掛かっている人へ、自分にとって何が大切か、何を楽しみに生きていくか、多くのヒントと温かいエールが詰まっています。ぜひご一読ください。
有元葉子/ありもとようこ
編集者、専業主婦を経て、料理家に。料理教室やワークショップ等を提案する「A&CO.」の主宰ほか、キッチンウエア「la base(ラ・バーゼ)」シリーズのディレクター、イタリア産オリーブオイル「MARFUGA(マルフーガ)」の日本代理店主宰を務めるなど活躍は多岐にわたる。レシピ本をはじめ、食を通して暮らしや生き方などを語ったエッセイなど著者は100冊以上に及ぶ。近年のベストセラーは『レシピを見ないで作れるようになりましょう』(SBクリエイティブ)、『生活すること、生きること』(大和書房)ほか。