2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロ。航空機がワールドトレードセンターに突入し、ペンタゴンにも襲い掛かったたこのテロ事件で、日本人24人を含む約3000人が亡くなり、負傷者は6000人以上とされている。
このテロ事件で犠牲になった杉山陽一さんの妻・杉山晴美さんは当時3歳と1歳の子供がおり、お腹にも3人目の赤ちゃんがいた。そんな中で捜索活動に出て、現場の話から、陽一さんは一度1階まで避難したけれど、「安全です」というアナウンスで80階のオフィスに戻ったのではないかという話を聞く――。
晴美さんの連載第2回を2025年も再編集してお届けする後編では、その話を聞いたのちに友人たちに送ったメールを入り口に、陽一さんのご両親や晴美さんの母もNY入りしした「現場」の話をお伝えする。能登の地震のときにも、フェイクニュースがSNSに拡散された。藁をもすがる思いで行方不明者を探す家族や友人にとって、どれだけ「偽情報」が残酷なものだろうか。
取り急ぎご報告
【9月13日、友人たちに送ったメールより】
わたしの夫、富士銀行員杉山陽一の名前が、アメリカ同時多発テロで日本のメディアでも行方不明者として報道されております件につき、みなさま方には大変ご心配をおかけしております。
何通ものお見舞いのメールを頂戴し、取り急ぎ現段階でわたしの入手しております情報をお伝えいたしますとともに、とりあえず、子供ふたりとわたしはなんとか元気でおります旨、ご報告申し上げます。
現時点での夫についての情報ですが、となり、北側のビルに航空機が衝突した直後、エレベーターで1階までいったんは無事下りたものの、そこで南側のビルの安全を伝えるアナウンスを聞き、また80階にあるオフィスに再び戻ってしまったと推測されております。
そしてその後、報道にもありますとおり、こちらのビルにも航空機激突。はっきりはしておりませんが、79階から90階付近に突っこんだもよう。富士銀行のオフィス直撃とのうわさもあり、現在主人の安否がますます危ぶまれているのが実情であります。ただ、混乱時のエレベーターが衝突時どこまで上がっていたかは定かではなく、負傷して病院にいる可能性も残っているため、わたしたちは最後の最後まで主人の存在を信じ、帰りを待つばかりであります。
いろいろとご心配をおかけして申し訳ありませんが、はっきりとした事実が判明するまえ、みなさまも一緒に主人の無事を祈っていただけたら幸いです。
では取り急ぎご報告、そしてメールをくださった方々にはこの場をお借りしてお礼申し上げます。ありがとうございました。
杉山晴美
たくさんの優しさにつつまれて
事件当日から、たくさんの方々にわたしたち家族は支えられている。
同じアパートに住む日本人の友人たちは、毎日代わる代わるごはんや子供のおやつを運んできてくれた。やはり小さな子供のいるお母さんたちである。とりわけ子供のことを心配してくれた。なんとか子供たちが笑顔でいられるように、少しでも楽しい気持ちになるようにと、遊びに連れ出してくれたりもした。
保育園の先生方も、日本人では入手しにくい情報があるかもしれないと、現地のニュースをいろいろ教えてくれる。保育園のお友達のお母さんたちは、子供の送り迎えをかって出てくれた。さらには、今まで面識のなかったアパートのメンテナンスの人たちまで、力になりたいのでな何でも言ってくれと訪ねてきてくれた。
わたしが通っていた英会話の学校の先生も、仕事帰りに夜食の差し入れをわざわざ届けに来てくれたりもした。
励ましのメールもたくさん受け取った。夫の生存をともに信じ、無事を一緒に祈ってくれているという。優しく温かい文面で涙がにじむ。時間をかけながら、やっとの思いで読む。みなさんの温かい心遣いは、海を越えわたしの心を優しく包みこみ、しっかりと支えてくれている。
ネットにのってかけめぐる誤報
【9月14日】
開けて14日(金)、朝から冷たい雨が降っていた。こちらは突然寒くなる、とは聞いていたが本当だった。再びフェリーに乗ってマンハッタンに渡り、前日同様捜索に向かったが、乗り合わせたアメリカ人たちは、みな防寒具を着ていた。
この時期、去年は残暑の厳しい日本にいたわたしには、驚きであった。昨日はTシャツ、今日は厚手のコート。アメリカ歴の浅いわたしは薄手の長袖シャツをひっぱりだして着るのがやっとであった。
とても寒かった。長袖シャツを着、船に乗っているわたしでさえ寒いのである。半袖シャツで瓦礫に埋もれ、したたる雨に濡れている人たちはどんなにか寒いであろう。ますます焦りが増す。
もしも夫がまだ瓦礫の中で救出を待ちわびていたら……消防隊の人たちが、昼夜を問わず必死で瓦礫のなかで捜索活動をしている映像が目に浮かんだ。彼らは一生懸命だった。信じよう。まずは、きっときっとあの人たちが助け出してくれる。
そんな藁にもすがりたい思いのわたしは、この頃、誤報に振り回されまくった。とにかく情報は混乱しまくっていた。何千人ものみこんで崩壊したふたつのビル。その何倍もの犠牲者を案ずる人々。みな、ありったけの知恵をしぼり、情報を得ようとコンピュータに向かっていたのだが、それがアダとなった。
不確かな事実はコンピュータ上に乗り、全世界をかけめぐった。夫はマンハッタンの病院のどこかにいる。しかも、自らコンピュータに向かい、その事実を伝えてきたという情報を、アメリカからも日本からも受けた。わたしは涙を流して大喜びした。なかなか受け取りにいけずにいた夫のシャツを、大急ぎでクリーニング屋に受け取りに行ったりもした。
が、調べていくにつけ不可解な点が多々出てきた。結局、誤報と分かった。この手の情報はほかにもいくつかあった。しかし、どの情報にも悪意は感じられなかった。
どこかで誰かが夫を心配し、なんとか探し出そうとしている姿が垣間見られた。悲しみにくれながらも、たくさんの人たちが夫の帰りを待っている。探しだそうとがんばってくれている。勇気づけられた部分も多かった。
絶対絶対、探し出してやる! そんなファイトがますますわいてきた。
しかしその日も夫には会えぬまま、翌朝、家族がニューヨーク入りするのを待つことになった。夫の両親をはじめ、みなどのような気持ちで飛行機に乗っているのだろうと思うと胸がずきずきする。
がんばれ! がんばれ! 悲しい気持ちをみんなで集めて、それを逆にパワーにしよう。マイナス×マイナスがプラスになることもあるのだ。日がたつにつれ、わたしは徐々にポジティブな部分が自分の中に芽生えていくのを感じていた。
NY入りした夫の両親とわたしの母
【9月15日】
被害者家族がニューヨーク入りをした。夫の両親とわたしの母。みな疲れた面持ちでホテルに集まった。11日からぐっすりと眠ることもないまま、13時間も時差のあるニューヨークにやってきたのだ。富士銀行の健康管理室のドクターも同行の旅ではあるが、身体が心配だった。まずはわたしの母と会う。
「だいじょうぶ、わたしはだいじょうぶ。こんな目にあってよくわかった。わたしはやっぱりあなたの娘なんだよ。気づかなかったけど、わたしは母の背中を見て育ってきたんだね」
そういった。嘘ではなかった。本当にそう思い、あらためてこの強い母に感謝した。
わたし自身も今の長男と同じ3歳の時、父が病死したのである。幼いわたしを抱えながらも、母は本当に強かった。
昭和初期の生まれで、芯の通った厳しい母。苦労のし通しでも子供にはけっして弱音を吐かず、わたしを育て上げてきた母。わたしに母の泣き顔の記憶はない。なにかの折につけ、わたしは、この母ほど強くはない。この人とわたしは性格が似ていない」などと思っていたが、この母にして今のわたしあり。彼女の強さはわたしの中にしっかりと根を張っていた。
強い母ではあったが、いかんせん高齢。70を超え甲状腺の病になって以来、もともと細かった身体はますますやせ細り、見た目も心細い。この日、マンハッタンに10年近く住んでいるわたしの母方の従姉妹をホテルに呼んでいた。
「だいじょうぶ」しか言えない
彼女に母をまかせ、早々に夫の両親の部屋へ向かった。深呼吸してからドアのノブを押した。青ざめた両親の顔が目に飛びこむ。つらい。ほんとうにつらい瞬間だった。思わずついて出た言葉は、やはり「だいじょうぶ」。この「だいじょうぶ」はもちろん夫・陽一にかかるもの。
「だいじょうぶ、陽さんは絶対生きています。みんなで一緒に探し出しましょう。親より先に逝くことほど親を悲しませることなんてないんですもの。陽さんは絶対そんなことしませんって。そんなつらい思いを、お父さんやお母さんにさせませんって。だいじょうぶ。だいじょうぶ」
義母の肩をたたきながら、必死で笑顔を作った。
お昼もその部屋でみんなでルームサービスをとって食べた。まずは「しっかり食べましょう!」と大きな声で唱え、わたしは率先して食べた。食べ物がお腹に入ると生き物は活気が出てくるものと私は信じている。事実、お腹が満たされると、俄然やる気が出てくる。
よーし、みんなを支えてやる! 夫のかわりに、彼の両親のこともわたしが励まし支えるんだ!
へたをすれば空回り気味のわたしの元気。見る人が見れば滑稽なまでのカラ元気だったのかもしれないが、そんなわたしの「カラ」の部分を見抜いてか見抜かないでか、両親や母は少しほっとした顔をしてくれた。それがまたわたしを元気づけてくれた。
ますます図に乗ったわたしは、お腹のことを無視して行動をとり続けた。
日が高いうちは捜索活動、行方不明者のリストを作るにあたり、健康診断書やレントゲン写真が必要とあらば、かかっていた病院にとりに行く。時間が惜しいとガレージまでダッシュした。
日中保育園に預けっぱなしの子供たち。迎えに行ってからは、はりきってお風呂にいれ、一緒にはしゃいだりもした。よく食べ、わりあいによく眠っていたつもりだった。精神状態も安定しているほうなのでは、などとも思っていた。