「凄まじい破壊力」はどこから生まれるのか?
近代物理学の輝かしい発展と表裏をなす原爆の開発・製造過程を、予備知識なしでも理解できるよう解説したロングセラーが改訂・増補され、『原子爆弾〈新装改訂版〉 核分裂の発見から、マンハッタン計画、投下まで』として生まれ変わりました。
ブルーバックス・ウェブサイトでは、この注目書から、興味深いトピックをいち早くご紹介していきます。今回は少し時間を先に進んで、先にご紹介した中性子の発見者・ジェームズ・チャドウィックが、その後に関わったイギリスの原爆開発に焦点を当ててみたいと思います。数年の間に激変した科学者たちをめぐる状況に、驚きを禁じ得ません。
*本記事は、『原子爆弾〈新装改訂版〉 核分裂の発見から、マンハッタン計画、投下まで』(ブルーバックス)を再構成・再編集したものです。
J・J・トムソンの息子が指揮した「イギリスの原爆開発」
ドイツと交戦状態に入っていたイギリスは、ドイツの原子爆弾開発を懸念しはじめており、原爆の開発・製造を軽視するわけにはいかなくなっていた。
原子爆弾が決して夢の爆弾ではないといち早く気づいたのはイギリスであり、それは「フリッシ=パイエルス覚書」*に述べられている。この覚書は、1940年3月にイギリス政府に提出されたものである。
*フリッシ=パイエルス覚書:1940年当時、バーミンガム大学にいて、かつて叔母のリーゼ・マイトナーとともに核分裂現象の発見に携わったオットー・フリッシと、ユダヤ系ドイツ人で、やはりバーミンガム大学にいた(ナチスによる反ユダヤ政策のために帰国できなかった)ルドルフ・パイエルスによる、原子爆弾開発の可能性や、早急な開発・製造の必要性から、実際に投下した場合の影響にまで言及した報告書。米国のマンハッタン計画にも影響を与えた。詳しくは、『原子爆弾〈新装改訂版〉』第9章を参照。
原子爆弾を重要視したイギリス政府は、原子爆弾開発委員会を設立した。その委員長としてインペリアル大学のジョージ・トムソンが任命され、1940年4月に「トムソン委員会」が発足した(同年6月に「MAUD委員会」へと改称)。
ジョージ・トムソンは、電子の発見者で、「ブドウパン型原子模型」の提唱者でもあるJ・J・トムソンの息子である(J・J・トムソンが電子の発見によってノーベル賞を受賞している一方、ジョージ・トムソンは電子が波のようにふるまうという電子の波動性を実験的に証明したことにより、1937年のノーベル物理学賞を受賞しており、親子二代にわたって、同じ電子に関してノーベル賞を受賞した)。
*原子爆弾開発委員会の委員長にジョージ・トムソンが任命:ジョージ・トムソンは、ジョリオ゠キュリー夫妻の夫であるフレデリック・ジョリオが、研究仲間のハンス・ハルバンとルー・コワルスキーとともに行った二次中性子の研究成果を見て、きわめて短時間内に起こる核分裂と、そこから生み出される爆発的なエネルギーが、そのまま原子爆弾につながると見ていた。こちらの事情についても、詳しくは『原子爆弾〈新装改訂版〉』第8章を参照。
イギリスもガス拡散法によるウラン濃縮装置に注目し、トムソン委員会はガス拡散法を推進するよう勧告している。イギリスの主要大学では、原子爆弾開発に関する種々の実験が開始された。
フリッシやパイエルスのいるバーミンガム大学はもとより、インペリアル大学、オックスフォード大学、ケンブリッジ大学、リバプール大学、ロンドン大学などが、こぞって原子爆弾の開発研究に参画したのである。
極秘計画「チューブ・アロイ」始動…中性子発見者のJ・チャドウィックも参加
1940年6月にパリがドイツ軍によって陥落する直前、 ハンス・ハルバンとルー・コワルスキーがパリからイギリスに逃亡している。二人はパリで、フレデリック・ジョリオの下、核分裂連鎖反応の研究に従事していた人物である。
翌1941年9月、イギリス政府直轄の科学顧問委員会は、原子爆弾の開発計画をさらに強化する目的と、その総括的な管理体制を組織するために「原子爆弾審議会」を発足させ、 その会長に理化学者であるジョン・アンダーソン(1882~1958年)を任命した。
アンダーソンは、1943年からのおよそ2年間にわたって財務大臣を務めることになる人物であり、1939年以降、核分裂から出るエネルギーの利用に興味を抱いていた。この審議会は当然、極秘扱いとなり、「チューブ・アロイ」という符牒でよばれた。
チューブ・アロイの委員には、中性子の発見者であるジェームズ・チャドウィックをはじめ、ハルバンやコワルスキーらも含まれていた。
1940年から1942年にかけて、イギリスとアメリカとの間で科学者を派遣し合い、原子爆弾開発に関する情報交換がなされていたが、1942年(昭和17年)になると戦争はいつ終わるとも知れない状態になってきた。アメリカと同じく、イギリスの多くの一線級の科学者たちは、原爆の開発よりも、すぐにも実用になる兵器開発やレーダーの研究に駆り出されていた。
オットー・フリッシ、ルドルフ・パイエルス、ハンス・ハルバン、ルー・コワルスキーなどはもともと外国人(逃亡してきたユダヤ人)であったため、通常の兵器開発やレーダーの研究などに携わることはなく、原子爆弾の開発に専従することになった。
敵国と対峙するイギリスの研究環境
地図を見ればすぐにわかるように、イギリスはドーヴァー海峡を挟んでヨーロッパ大陸と向かい合っている。
戦争には、スパイ活動がつきものである。イギリスの原爆開発情報がいつドイツ側に漏れないとも限らない。戦争というものは、短期間に膨大な物資を消費するものであり、飛行機、弾薬、兵器などの生産の手を休めている暇などない。
このような状況下にあって、膨大な研究開発費用と労力を要する原子爆弾の開発など可能であろうか?
日本の場合は事実上、不可能だったようだ。アメリカ軍の爆撃機B-29による主要都市への空襲などにより、原爆研究施設のほとんどが破壊されてしまっている。もっとも日本は、当時の金額とはいえ、原子爆弾の開発費用に割り当てられた予算は2万円にすぎなかった(アメリカは当時の金額で20億ドル!)。
アメリカはイギリスとまったく状況を異にし、対戦国ドイツとの間には大西洋があり、当面はドイツ軍による空爆の心配はない。1929年に起きた世界大恐慌からかなり立ち直っており、 地理的にも経済的にも恵まれていた。
「物資豊かなアメリカ合衆国」は当時、原子爆弾の開発に関して、他のどの国よりも恵まれた条件がそろっていたのである。
研究拠点は、さらに安全なカナダへ
1942年の春、ケンブリッジで(パリから逃亡した)ハンス・ハルバンが行っていた天然ウランと重水を使った核分裂連鎖反応の実験に関し、空襲やスパイ活動などに対してより安全が見込めるカナダに移転してはどうかという案が出され、その旨がカナダ政府に通達された。
カナダはアメリカと陸続きであり、アメリカとの情報交換がより安全に効率よくできる。さらに、原子爆弾の製造を目的とする秘密の研究所として使われていた「冶金研究所」のあるシカゴは、カナダに近い。
カナダ政府はこの申し入れを快く引き受け、1943年(昭和18年)、イギリス・カナダ共同 による核分裂連鎖反応研究所がカナダのモントリオールに設立された。ハルバン博士の率いるケンブリッジ研究グループのほぼ全員が、モントリオールに赴いている。
チューブ・アロイ、マンハッタン計画に合流
1943年8月、イギリスの「原子爆弾審議会(チューブ・アロイ)」会長のジョン・アンダーソンが渡米した。目的は、英米による原子爆弾共同開発の明確化、およびその公式化にあった。
この問題は、アメリカ大統領フランクリン・デラノ・ルーズヴェルトとイギリス首相ウィンストン・ チャーチルとの間でも討議され、英米共同方針委員会を生む結果となった。
この委員会で、イギリス側の科学アドバイザーに任命されたジェームズ・チャドウィックは、 英米共同研究を今後どのような方向に持っていくかを会員たちと検討した。
その結果、チューブ・アロイに関係しているほとんどの研究員がアメリカの「マンハッタン地区」に合流するとい う結論に達し、チャドウィックが自ら率いる「イギリス原爆開発部隊(ブリティッシュ・ミッション)」は「マンハッタン計画」に参加することになったのである。
錚々たる在英科学者…なんと、スパイ活動をしていた者も
1943年12月までに渡米したイギリス部隊のおもな顔触れは、次のとおりである。
ニールス・ボーア、ジェームズ・チャドウィック、オットー・フリッシ、クラウス・フックス、ドナルド・マーシャル、フィリップ・ムーン、ルドルフ・パイエルス……。
ボーアはイギリス人ではなく(デンマーク人)、フリッシもパイエルスももともとイギリス人ではない。ボーア、フリッシ、パイエルスらをはじめ、何人かはユダヤ人物理学者であり、ボーアはコンサルタントとして参加している。
このうちの一人であるクラウス・フックスは、実はスパイ活動に従事しており、ロス・アラモスに赴任後、ソ連の情報機関に原子爆弾の情報を流していたことがのちに判明している。
また、終戦が近くなって、ジョージ・プラチェックら何人かは、カナダのモントリオールからロス・アラモスに赴いている。
この結果、第一線で原爆開発に従事していたイギリスの科学者たちのほとんどがアメリカの「マンハッタン計画」に参加することとなり、イギリス独自の原子爆弾開発には事実上、終止符が打たれることとなった。
*
かつて「原子爆弾はアメリカで発案・製造されたもの」と固く信じ込んでいた筆者は、あるとき目にした原子爆弾に関する本に、「世界に先駆けて原子爆弾を考えついたのはイギリスである」と書かれていたことが脳裏に刻まれている、と言います。
J・J・トムソンやラザフォードが灯した新たな科学の光が、原爆開発へと急展開したこの数年間に、いったい何が起こっていたのでしょうか。
次回は、ふたたび1930年代の原子核物理学研究の世界に戻ってみます。
原子爆弾〈新装改訂版〉 核分裂の発見から、マンハッタン計画、投下まで
核分裂の発見から原爆投下まで、わずか6年8ヵ月ーー。
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