「状況芳しくなく、腹は決まっています」
「これが最後の通信になるかもしれません」
「足の悪い者や病人は濁流の中に呑まれて行く」
最前線、爆弾投下、連絡員の死、検閲……何が写され、何が写されなかったのか?
新刊『戦争特派員は見た――知られざる日本軍の現実』では、50点以上の秘蔵写真から兵士からは見えなかった〈もうひとつの戦場〉の実態に迫る。
(本記事は、貴志俊彦『戦争特派員は見た――知られざる日本軍の現実』の一部を抜粋・編集しています。秘蔵写真の数々は書籍でお楽しみいただけます)
事件後の報道体制
盧溝橋事件勃発後、各地での写真、映画陣容を強化するために、事件直後の7月11日には満洲や朝鮮の支局、大毎本社の社会部、政治部、写真部、映画課、航空部、連絡部、英文毎日、また東日の各部課などからも、多くの人員が華北(中国北部)に派遣された。
その後、3回にわたって派遣陣容が発表され、4回目は上海方面への特派員が発表されている。満洲事変取材に一番乗りした大毎写真部の石川忠行が北平(北京)に、東日写真部木村定秋ら20人が天津に派遣されたとある。
盧溝橋事件報道の指揮は、満洲通信総局長の楢崎観一(佐賀県出身)がとり、北平支局は三池亥佐夫(福岡県八女市出身)、天津支局は大毎社会部副部長本田親男(鹿児島市出身)や大毎政治部副部長渡瀬亮輔(熊本県八代市出身)が中心となって進めた。
平時における北平支局の様子も残っている(写真は書籍『戦争特派員は見た』でご覧ください)。最初の支局は、北平東三条胡同二六の四合院にあった。現在でいえば、東方新天地東単店の北側の通りを入った所である。
写真に写る三池支局長は、上海の東亜同文書院を卒業しており、中国語も達者であった。1923年5月に大毎編集局に見習員として入社、支那部に勤務する。1927年4月には中国に出張し、その翌年10月には大連支局次長兼奉天通信部主任に着任し、満洲事変を現地で経験することになる。この頃、三池と共に、南京の吉岡文六(1942年に東日東亜部長、編集局理事)が中国大陸の特電について精彩をはなっていたといわれる。
盧溝橋事件当時、三池は北平と天津の両支局長を兼任していたが、その後満洲国に戻って新京支局長に就任する。そして、いったん本社に戻って、東亜部、「華文大阪毎日」で勤務した後、再び中国に渡って上海に駐在となる。さらに、マニラ新聞社に出向したものの、フィリピンのカガヤン州のカピサヤンにて戦病死に至る。
一方、天津に特派された本田親男は、早稲田大学を中退後、神戸新聞を経て、1924年に大毎に入社し、社会部記者となる。満洲事変後の第一次上海事変では「爆弾三勇士」のスクープをものにする。帰社後は神戸支局、本社社会部に在籍した後、社会部長として盧溝橋事件の取材にあたった。その後、編集局次長として活動し、戦後は毎日新聞社の社長として辣腕を振るったという。
盧溝橋事件が起こると、特派員たちにも危機が及んだ。北平支局の治安も危うくなり、7月27日に日本大使館施設内に一時避難したときの支局員の様子を撮った写真が残っている(写真は書籍『戦争特派員は見た』でご覧ください)。写真に写っている面々が、いかに緊張のさなかにあったかがわかる。写真部員不足のために、矢作保次のように横浜シネマ商会から出向した者もいた。矢作は、上海、杭州などでニュース映画を撮影しており、戦後はテレビ放送の設備開発に貢献した。
新たに加わった記者が取材する様子も残されている。のちノモンハン事件などの指揮官となる牟田口廉也部隊長と語る瀬戸俊夫、盧溝橋東方の西五里店で第二軍参謀長の鈴木率道少将の話を聞き取る杉本鶴一、天津で元冀東防共自治政府政務長官の殷汝耕とツーショットを撮る東日社会部の一色直文(東京都出身)の姿である(写真は書籍『戦争特派員は見た』でご覧ください)。殷汝耕は、1937年7月通州で起こった日本人虐殺事件の責任をとって北平(北京)に蟄居していた。その頃の姿と思われる。
こうした新たな報道体制を維持するために、大毎では1937年7月15日に「出征軍事取扱内規」が改正される。
その後の戦況を考えると、この内規はじつに重要な意味をもっていた。つまり、召集されて軍務に服することになっても、社員(現職)として取り扱うことが決められたからである(ただし再応召した場合は適用外とする)。これにより、応召した職員は、軍人としての肩書と新聞社特派員という二つの肩書をもつことになった。
さらに陸軍省も、同年8月3日以降、現地駐在の新聞社特派員を陸軍従軍記者とすることを認めたため、二重の肩書は公に制度化されることになったのである。
本記事の引用元『戦争特派員は見た――知られざる日本軍の現実』では、日中戦争から太平洋戦争、その後まで、特派員の人生や仕事からその実態を描いている。書籍には50点以上の秘蔵写真を収録していますので、ぜひご覧ください。
貴志俊彦(きし としひこ)
一九五九年生まれ。広島大学大学院文学研究科東洋史学専攻博士課程後期単位取得満期退学。島根県立大学教授、神奈川大学教授、京都大学教授などを経て、現在はノートルダム清心女子大学国際文化学部嘱託教授。京都大学名誉教授。専門はアジア史、東アジア地域研究、メディア・表象文化研究。主な著書に『イギリス連邦占領軍と岡山』(日本文教出版株式会社)、『帝国日本のプロパガンダ』(中央公論新社)、『アジア太平洋戦争と収容所』(国際書院)、『日中間海底ケーブルの戦後史』『満洲国のビジュアル・メディア』(以上、吉川弘文館)、『東アジア流行歌アワー』(岩波書店)など、多数の研究成果がある。最新刊『戦争特派員は見た』(講談社現代新書)。