「状況芳しくなく、腹は決まっています」
「これが最後の通信になるかもしれません」
「足の悪い者や病人は濁流の中に呑まれて行く」
最前線、爆弾投下、連絡員の死、検閲……何が写され、何が写されなかったのか?
新刊『戦争特派員は見た――知られざる日本軍の現実』では、50点以上の秘蔵写真から兵士からは見えなかった〈もうひとつの戦場〉の実態に迫る。
(本記事は、貴志俊彦『戦争特派員は見た――知られざる日本軍の現実』の一部を抜粋・編集しています。秘蔵写真の数々は書籍でお楽しみいただけます)
戦争は報道を変えたか
盧溝橋事件と、それにつづく第2次上海事変を契機として、中国各地に拡大した日中間の武力衝突と共に、新聞社の間で起こった激しい報道合戦も忘れてはならない。それ以前と比べて、まったく違った戦争取材の在り方に対して、中国大陸に渡った特派員たちがいかに対応したのか。彼らの目線を通じて考えていく。
1937年7月に起こった盧溝橋事件から、1940年4月までの2年10ヵ月の間に、大毎・東日で計3万6000枚あまりの報道写真が撮られた。
たとえば内務省に検閲用として送付した2枚のうち1枚が返却され、その写真を八つ切りサイズで6枚に引き伸ばす作業などを考えると、焼付枚数は21万8000枚ほどになる。もちろん、検閲機関は内務省だけでなく、陸軍省あるいは海軍省、内閣情報部(のちの情報局)もあった。
しかも、戦地にいるひとりひとりの特派員から送られる写真を引き伸ばして、水洗いし、乾燥させ、説明をつけるのはたいへんな作業であった。戦況が厳しかったときには一度に30ダース(焼付枚数2160枚)の写真が届いたというから、本社での作業も半端ではなかった(『戦時新聞読本』)。
(1)北京、上海での武力衝突
事件第一報
盧溝橋事件勃発の第一報が、1937年7月8日未明、天津日本租界吾妻街(現・佳木斯道)にあった大毎天津支局から発せられたことはあまり知られていない。
当時支局長代理であった橘善守は、懇意にしていた支那駐屯軍参謀の和知鷹二夫人から受けた電話から出兵についてひらめき、海光寺の支那駐屯軍司令部で確認した後、大毎東亜部に特報を送信した(『毎日新聞百年史』)。この頃の天津支局の様子を撮ったと思われる写真がある(写真は書籍『戦争特派員は見た』でご覧ください)。
このときの送信方法は、満洲事変後に使われた専用無線電信(短波)によって、天津や北平(北京)から山海関へ、山海関から奉天に打電され、そこから「東亜特電」として大毎本社に伝えられた。
橘のスクープ情報は、他社より約2時間も早く本社に着き、大毎・東日とも、7月8日には号外を発出する。こうして翌日の夕刊から、「北支事変」報道戦が始まったのである。
なお、もうひとつの報道伝達ルートは、上海、南京、武漢に「前線基地」が設定され、上海から大阪へ電話または電信を用いる南の通信ルートであった。このルートは、海底ケーブルを運用するグレート・ノーザン電信会社に情報が洩れる恐れがあったため、極秘事項の多くは北ルートでおこなわれることが多かった。
写真や記事の空輸も重要だった。
盧溝橋事件後、大毎・東日の社機を操縦する吉田重雄(樺太大泊・現コルサコフ出身)らが空輸に尽力している。吉田は、1937年1月に東日に入社。1939年8月には純国産機「ニッポン」による世界一周飛行の操縦士として中尾純利機長を補助して、その偉業を達成した。戦時下で先の見えない時代にあって、この壮挙は、日本中に明るい話題をもたらした。
その後、吉田は、一等航空士、連合艦隊司令部嘱託、陸軍航空本部嘱託、陸軍航空郵送部付陸軍専任嘱託として、前線への補給、人員空輸に尽力し、1943年11月には東京で開催された大東亜会議に参加する国外の重要人物の送迎もしている。
しかし、1943年12月23日、吉田らが操縦する陸軍輸送機は、ニューギニア島ホーランジア(現・ジャヤプラ)からの帰途、米軍の艦上高射砲で損傷を受け、また前方が見えないほどの豪雨であったこともあり、モルッカ諸島のハルマヘラ島付近で墜落した。このとき吉田は、32歳という若さであった。同乗していた4人も全員即死した。
つづく「盧溝橋事件勃発で戦争特派員たちが直面した「危機の正体」」では、新たな報道体制で応召した職員が軍人としての肩書と新聞社特派員という二つの肩書をもつことになった実態に迫る。
本記事の引用元『戦争特派員は見た――知られざる日本軍の現実』では、日中戦争から太平洋戦争、その後まで、特派員の人生や仕事からその実態を描いている。書籍には50点以上の秘蔵写真を収録していますので、ぜひご覧ください。
貴志俊彦(きし としひこ)
一九五九年生まれ。広島大学大学院文学研究科東洋史学専攻博士課程後期単位取得満期退学。島根県立大学教授、神奈川大学教授、京都大学教授などを経て、現在はノートルダム清心女子大学国際文化学部嘱託教授。京都大学名誉教授。専門はアジア史、東アジア地域研究、メディア・表象文化研究。主な著書に『イギリス連邦占領軍と岡山』(日本文教出版株式会社)、『帝国日本のプロパガンダ』(中央公論新社)、『アジア太平洋戦争と収容所』(国際書院)、『日中間海底ケーブルの戦後史』『満洲国のビジュアル・メディア』(以上、吉川弘文館)、『東アジア流行歌アワー』(岩波書店)など、多数の研究成果がある。最新刊『戦争特派員は見た』(講談社現代新書)。