「中流幻想」ははるか彼方の過去の夢。
1980年前後に始まった日本社会の格差拡大は、もはや後戻りができないまでに固定化され、いまや「新しい階級社会」が成立した。
講談社現代新書の新刊・橋本健二『新しい階級社会 最新データが明かす〈格差拡大の果て〉』では、2022年の新たな調査を元に「日本の現実」を提示している。
本記事では、〈「アンダークラスはまるで消耗品」…なぜ日本に「新しい階級」が登場したのか?〉に引き続き、フレクシ=グローバル資本主義と階級構造について詳しく見ていく。
※本記事は橋本健二『新しい階級社会 最新データが明かす〈格差拡大の果て〉』より抜粋・編集したものです。
フレクシ=グローバル資本主義と階級構造
アンダークラスという新しい階級が出現したのは、現代資本主義が新しい段階に到達したことの結果のひとつである。
フォーディズム段階のもとでの経済成長と安定の時代は1970年代半ばに終焉を迎える。そして多くの研究者は、1970年代後半から十数年間の過渡期を経て、1990年代から資本主義が新たな段階に入ったと考えてきた。
この新しい段階は、これまで「ポスト・フォーディズム」、「バイオ・情報通信資本主義」、「グローバル資本主義」、「新自由主義的グローバル資本主義」、「フレクシブルな蓄積」など、さまざまな名前が与えられてきた。この新しい段階の中心的な特徴はグローバル化とフレクシビリティにあると考えられる。そこで本書ではこの段階を、「フレクシ=グローバル段階」と呼ぶことにしたい。
フレクシ=グローバル段階を特徴づけるのは生産諸要素、つまり生産活動に必要な資本、労働力、そして情報を含む生産手段が、グローバルな規模で、不断に流動し続けることである。資本は利益を求めて世界中を駆けめぐる。労働力は雇用の場所と高賃金を求めて国から国へと移動する。情報は瞬時に世界中に伝わり、原料や機械は収益性を考慮して地球のあらゆる場所から調達される。
グローバル化が先進国の階級構造にもたらす最大の変化は、分極化である。フォーディズム段階の特徴は、技術水準と賃金水準が中間レベルの製造業が、先進国内部に分厚く集積していたことである。しかしグローバル化が進行すると、先進国の製造業は競争力を失って衰退し、あるいは安い労働力を求めて中枢部分を先進国に残しながら海外に移転していく。そして産業の中心は、金融業と情報サービス業に移行する。
このため先進国の職業構造は、高度な技能や判断力を必要とする高賃金のものと、低賃金の単純労働とに分極化することになる。一方では、先端技術を駆使したり専門的サービスを提供したりする産業に従事する専門技術職が増大する。他方では、これらの人々の仕事と生活を支える清掃人、店員やレジ係、ウェーター、建設作業者など、労働集約的な産業で単純労働に従事する労働者が増加する。こうして格差は拡大していくのである。
生産諸要素はグローバルに流動するだけではなく、一国経済のなかでも流動性を増していく。とくに労働力の流動性が増したことが重要である。サービス経済化という産業構造の変化と、新自由主義の浸透により、資本は労働者の生活や権利などはおかまいなしに、サービスの種類や需要の変化に応じて、労働力をフレクシブルに活用しようとするから、雇用は不安定化する。この労働力のフレクシブルな部分を主に担うのが、アンダークラスである。
さらにフレクシ=グローバル段階の資本主義社会では、新自由主義の浸透によって、国家が経済において果たす役割が縮小していく。国家はこれまで、衰退産業、そして零細企業や自営業を、ある程度まで保護していた。これらが急速に衰退して、失業者が急増するようなことは避けなければならなかったし、これらが保守政党の支持基盤だったこともその一因だった。ある時期まで農協が、自民党の強固な支持基盤だったことを思い出していただきたい。しかし新自由主義は、このような保護を嫌う。こうして市場における競争は規制から解放され、旧中間階級の分解が進行することになった。
このようにフレクシ=グローバル段階では、全般的な格差拡大、アンダークラスの出現と拡大、そして旧中間階級の分解が進行するのである。
格差拡大については、次の変化も付け加えておきたい。
21世紀に入ったころから、製造業に代わってリーディング・インダストリーの中心を占めるに至った金融業やIT産業を中心に、きわめて高い報酬を受け取る経営者や新中間階級が増加するようになった。
もともと資本家階級である経営者の受け取る報酬は、労働力の再生産費ではなく利潤の配分だから、利潤の範囲内であれば、とくに上限のようなものはない。それでも高度経済成長期までの日本の大企業では、経営者の受け取る報酬は新中間階級や労働者階級のせいぜい数倍から十数倍にとどまっていた。しかし近年では、数十倍から百数十倍もの報酬を受け取る経営者が増えている。また新中間階級のなかにも、企業の得た利潤の配分を受けて、高額の報酬を得る人々が増えている。つまり新中間階級のなかに、労働者階級を搾取する側に立つ人々が増えたのである。
つまり資本家階級は、以前にも増して労働者階級を搾取するようになった。そして新中間階級にも、労働者階級を搾取する側に立つ人々が増えた。そうなると当然、労働者階級の取り分を減らさなければならない。アンダークラスは、このために利用されているのである。見方を変えれば、アンダークラスが増加することによって、正規労働者階級の賃金の低下が抑えられているということもできる。だとすれば、正規労働者階級とアンダークラスの利害は対立することになる。
この社会は持続可能なのか
これまで、アンダークラスを底辺に置く新しい階級社会が出現するまでに、資本主義がたどった道のりについて概観してきた。
資本主義社会は、旧中間階級が人口の大部分を占める社会にあって、資本家階級が少数の労働者階級を雇って事業を営み始めたところから始まった。しかし資本主義が独占段階を迎えると、企業の規模が格段に大きくなり、管理労働や事務労働、そして技術労働の必要性が増大する。こうして新中間階級が形成された。さらに資本主義がフォーディズム段階に進むと、福祉国家を担う多くの専門職や事務職が雇用されるようになり、新中間階級の規模は拡大した。
しかし資本主義は、1970年代から1990年ごろにかけての過渡期を経て、フレクシ=グローバル資本主義段階という、新しい段階を迎えた。この段階では、生産に必要な労働力と生産手段が、グローバルにも、また一国内においても、格段に流動的なものとなる。流動性を高める必要から、新自由主義が浸透する。労働者階級はもはや、全体としては、安定した雇用や賃金を保障されなくなる。こうして形成された新しい階級が、アンダークラスである。
アンダークラスの出現、そして拡大は、社会に何をもたらすだろうか。ひとことでいえば、社会の持続可能性が大きく低下する。あえていえば、社会は存続不可能なものとなる。正規労働者階級は搾取される階級であるとはいえ、その賃金には子どもを産み育てて次世代の労働力を再生産する費用が含まれている。しかしアンダークラスの賃金には、次世代の労働力を再生産するための費用が含まれていない。だからアンダークラスは子孫を残さない。再生産不可能な階級、それがアンダークラスである。
それでは再生産不可能なアンダークラスは、新たな担い手を得ることができずに縮小していくのか。そんなことはない。フレクシ=グローバル資本主義がいまあるようなものである限り、アンダークラスは必要とされ続ける。だから、他の階級の人々が産み育てた子どもたちが、アンダークラスに転落する。しかしアンダークラスは家族を形成せず、子どもを産み育てない。だから他の階級の人々の一部には、孫が生まれない。
アンダークラスは、他の階級の人々の子どもたちを飲み込んでいくが、あとには何も残さない。それは、フレクシ=グローバル資本主義のなかの、いわばブラックホールである。
歴史人口学者の速水融によると、江戸時代後半の日本では、飢饉の時期を除けば多くの地域で人口が増えていたが、関東地方と近畿地方だけは人口が増えなかった。それは江戸と京都、大坂が、周辺地域から多くの人を引きつけておきながら、たび重なる疫病の流行や大火などのため、死亡率が高かったからである。このように近世の大都市は、人を引きつけておいては殺す「アリ地獄」だったというのである。
アンダークラスは、これに近い。もちろん、アンダークラスが人を殺すわけではない。アンダークラスを低賃金で働かせて利益を得る資本家階級、そして新中間階級の一部が、アンダークラスを使い捨てては、他の階級の子どもたちをアンダークラスに引き入れるのである。しかも現代では、他の階級の出生率も低くなっているのだから、人口は急速に減少していくことにならざるを得ない。もはやこの社会は、持続不可能である。
未婚化と少子化を促進する悪循環
先に私は、アンダークラスの労働力の価値は、次世代を再生産する費用を含まない形で再定義されていると書いた。なぜ、このようなことが可能になったのか。それはおそらく、循環論法にみえるかもしれないが、少子化が進んだからである。日本の合計特殊出生率(一人の女性が生涯のうちに生む子どもの数)は、1950年には3.65だったが、その後は急速に低下し、1960年には2.00となったものの、高度経済成長期はほぼ2前後を維持していた。しかしその後は低下傾向を見せるようになり、1990年には1.54、2000年には1.36、2005年に1.26となった。その後はやや持ち直し、2015年には1.45まで回復したが、以後は再び低下に転じ、2023年には1.20となった(図表2・4)。
「少子化」という言葉は1980年代から使われていたが、1992年には「少子社会の到来、その影響と対応」と題した『国民生活白書』が発表され、広く定着する。同じころから「未婚化」という言葉も使われるようになった。こうして結婚しない生き方、子どもを産み育てない生き方というものが、ひとつのライフスタイルとして広く認知されるようになる。こうなると、家族を形成することのできない、あるいは子どもを産み育てることのできない低賃金というものが、社会的に許容されるようになっていく。このような低賃金は、フォーディズム段階の日本でも、家計の主な支え手となることのない学生アルバイトやパート主婦、さらにいずれは結婚退職すると想定されていた若年女性にはみられた。しかし少子化と未婚化の定着によって、その範囲が大きく広がったのである。
このように未婚化と少子化の進行が、低賃金の範囲を拡大し、このことがさらに未婚化と少子化を促進するという悪循環が始まったのである。
*
さらに【つづき】〈「格差拡大」により日本に出現した「新しい下層階級」…現代日本の「階級社会」のしくみ〉では、「新しい階級社会」とはどのような社会なのか、詳しく見ていく。
橋本 健二
1959年、石川県生まれ。東京大学大学院教育学研究科博士課程単位取得退学。現在、早稲田大学人間科学学術院教授(社会学)。データを駆使して日本社会の階級構造を浮き彫りにする。また、趣味と研究を兼ねて「居酒屋考現学」を提唱。著書『階級社会』(講談社選書メチエ)、『新・日本の階級社会』(講談社現代新書)ほか