2019年7月に起きた京都アニメーション第1スタジオへの放火。
事件当日何が起こったのか、事件はなぜ起きたのか――。
地元紙・京都新聞の連載「理由」をもとに書き下ろした『自分は「底辺の人間」です 京都アニメーション放火殺人事件』より抜粋・再編集。
緊迫の事件当日の状況と、初公判で「底辺の人間」と自称した犯人に取材班が覚えた違和感を紹介します。
赤いTシャツの男
京都アニメーション第1スタジオにほど近い公園に、赤いTシャツを着た男の姿があった。
京都市内は朝から気温26度、湿度80%前後で、すでに汗ばむような蒸し暑さだった。昨夜は眠れなかった。
近くのコンビニに向かった。
牛丼とカップ麺を買い、公園でかき込む。台車や携行缶も既に準備していた。
午前10時になった。男は約200メートル先にあるセルフ式のガソリンスタンドに入った。20リットル入りの携行缶2つをスタッフに示し、ガソリンを満タンにしてほしいと伝える。
店員から使用目的を問われると、「発電機です」と噓をついた。携行缶を台車に載せて、道路を歩いて行く。
京都にやってきたのは3日前。7月15日午後1時45分、住んでいる埼玉県から新幹線で京都駅に到着した。
電車を乗り継いで、多くのアニメーターがいると考えた第1スタジオを探して回った。スマートフォンを解約していたため、目的地を探すのに骨が折れたが、自身の計画に鑑みれば、人にスタジオの場所を尋ねることははばかられた。
途中、京アニ関連のグッズを販売するショップを見つけた。
ファンの出入りする建物を外から見た。輝くようなまばゆさと自身の境遇のギャップが胸に迫ってきた。
インターネットカフェなどを利用しようやく第1スタジオを見つけたのが、16日のことだった。翌17日には携行缶や台車などを購入した。そのまま公園で野宿した。
18日午前10時16分、男は、第1スタジオのある路地にやってきた。京阪六地蔵駅のすぐそばに住宅が建ち並ぶ。その一角に第1スタジオが建っている。携行缶からバケツに、ガソリン10リットルを移す。
頭を抱えてうずくまった。顔に、逡巡するような表情を浮かべた。
約10分が過ぎた。男は立ち上がり、再び歩き始めた。第1スタジオの前に来た。
肩にかついだかばんには、自宅から持参した包丁6本が入っている。入り口が施錠されていた時に使おうと、ハンマーも持っていた。
第1スタジオに警備員はいない。玄関のドアが施錠されていないことを確認した男はきびすを返し、ガソリンを入れたバケツを手にし、再びスタジオに足を踏み入れた。
ドン、ドン、ドン。
けたたましい音を響かせ、フロアを歩き、らせん階段の近くで、立ち止まった。
「なに、なに?」という女性の声が聞こえたように思った。右手に持ったバケツから、ガソリンをまき散らした。
3メートルほど離れた場所にいた社員の体や、机の資料に勢いよくガソリンがかかった。悲鳴が上がった。逃げだそうとする社員に向けて男は叫んだ。
「死ね!」
ポケットから出したガスライターで火をつけた。揮発性のガソリンに反応して、炎が爆発的に燃え上がった。猛火と黒煙はらせん階段を伝い、瞬く間にスタジオ全体を襲った。
自身にも炎が燃え移った男は、そのまま外へ飛び出した。
ビル内を満たした燃焼ガス
その時、建物内にいたのは70人。1階に制作担当の12人、2階に作画や色彩担当などの31人、3階に作画、演出担当の27人だった。
猛炎は、まず1階にいた人々を襲った。2階と3階にはらせん階段を伝って、炎や煙が充満し、逃げ道を奪った。
火災の状況を総務省消防庁のシミュレーションや取材に基づき再現する。
出火10秒後。らせん階段が避難経路として使用不能になった。
2階と3階の人たちは、階下に逃げようとしたが煙に阻まれた。ベランダを目指すか、屋上へ続く階段に向かうしかなかった。
60秒後。2階と3階を煙と高温の燃焼ガスが満たし、屋上に続く階段付近も90秒後には煙が充満した。
120秒後。建物全体が、人が耐えられないほどの高温になり、避難が不可能になった。
火災直後に33人が死亡、後に亡くなった人も含めると死者は36人に上った。生き残ることができたのは34人だった。
逃げ道がない中で
公判で明かされた生存者の調書や証言などから、各階の混乱した様子の一部を知ることができる。
1階の窓際で電話をしていた社員は、赤い服を着た男が「くそが!」と叫びながらガソリンをまく姿を見た。
直後にガソリンを浴びた。爆発音の後、体に火がつき、そばの窓から転げ落ちるように外に出た。
1階にいたスタッフのうち7人は、すばやく外に出たり、トイレに逃げ込んだりして助かった。
一方で、玄関付近にあるらせん階段のすぐ近くにいた2人は死亡した。大やけどで搬送された3人は翌日以降に病院で亡くなった。
2階で、イヤホンで音楽を聴きながら仕事をしていた作画担当の社員は、「ギャー」という叫び声を聞いた。イヤホンを外して振り向くと、らせん階段の下からキノコ雲のような黒い塊が上がってきていた。机の下のかばんを取り、階段で避難しようとすると、同僚たちが引き返してきた。
ベランダから逃げようとしたが、窓が閉まっている。煙が迫るなか、パニックになりなかなか開けることができなかった。
「早く開けて!」「開かないなら割ってよ」。周囲から叫び声が聞こえた。
耐えきれないほどの熱風が耳の後ろに迫り、倒れ込んだ。頭上でパンという音がして、窓の真ん中が割れた。急いで上半身を乗り出し、ベランダに出て、はしごを使って降りた。
2階にいたスタッフ20人と、ほかの階から逃げてきた7人が、ベランダや窓から路上に飛び降りたり、住民がかけたはしごで避難したりした。
2階にいたスタッフのうち、11人が逃げ遅れた。
一方、3階では、階下から叫び声が聞こえ非常ベルも鳴り響いていたが、イヤホンを着けて作業に没頭している人もいた。
異変に気付いた一人の社員がリュックを背負って階段に向かった。大量の真っ黒な煙がはい上がってきているのが目に入った。
「屋上に逃げろ」。誰かの声が聞こえた。
この社員もいったん向かおうとしたが、屋上へ出る鍵の構造が複雑だったのを思い出し、とっさに下を目指した。
階段の踊り場で黒煙に巻かれ息苦しさが増す中、窓の光がかすかに見えた。息を吸おうと窓を開け、網戸を力ずくで外した。外壁にわずかな突起部分があった。
窓から体を出し、つま先立ちで壁に張り付いた。スタジオ近くの駐車場で作業していた人に、はしごで助け出された。
逃走からの逮捕
3階にいたスタッフで逃げ出せたのはこの社員を含む7人だけだった。
屋上に続く階段では、扉の前で折り重なるように倒れるなどして、20人が死亡していた。先頭の社員は扉のすぐ手前までたどり着いていた。扉の鍵はかかっていなかった。建物内は黒煙で視界はほぼゼロだったとみられる。
京アニ第1スタジオに火を放った男はその場からすぐに逃走した。
自身についた火を消すために、地面に転がった。路地を抜けて住宅街の入り口まで来て倒れ込み、住民に介抱された。
ほどなく、京都府警の警察官が現場に駆けつけた。
当時の緊迫したやりとりが音声などで記録に残っている。
警察官 名前言えるか。
男 アオバ。
警察官 下の名前は。
男 シンジ。
警察官 なんでやった。言わなあかんぞ。
男 パクられた。
警察官 何を。
男 小説、小説。
警察官 何を使って火をつけたんや。
男 ガソリン。
警察官 どこで買った。
男 ガソリンスタンド。(場所は)覚えてない。
警察官 ここまで何で来た。
男 歩いて。
警察官 どこに住んでいるのか。
男 埼玉。
警察官 火をつけた物は。
男 チャッカマン。何度も言っただろ。
警察官 自分で持ってきたのか、買ったのか。
男 しんどい。ホームセンターだよ。宇治。
警察官 一人暮らしか。
男 (首を縦に動かしてうなずく)
警察官 あそこ(第1スタジオ)は知ってる場所か。
男 知らねえよ。
警察官 全く関係ない所か。知らないとやらないだろ。
男 お前らが知ってるだろ。
警察官 責任があなたにはある。頑張って言え。
男 お前らがパクりまくったからだよ。小説。
警察官 何人もけがをしている。あなたには言う義務がある。
男 お前ら全部知ってるんだろ。
警察官 埼玉のどこに住んでいるのか。
男 ……。
警察官 ガソリンはどれくらいまいたんや?
男 ……。
警察官 おーい、頑張って言え。
男は意識を失ったが、その身元は警察によってまもなく確認された。
青葉真司。当時41歳だった。
この男は何者なのか?
社会を震撼させた事件が2019年7月18日、京都市にある京都アニメーション第1スタジオで起きた。
放火により36人が死亡、32人が重軽傷を負った。
地元紙の京都新聞は過去最大級の取材態勢を組み、事件の背景や犠牲者の人となりなどを精力的に報じた。
しかし、抜け落ちている大きなピースがあった。それは、現場近くで身柄を確保され、後に放火や殺人容疑などで逮捕、起訴された男の実像。
大やけどを負い、懸命の治療で一命をとりとめたが、初公判までの4年間、供述内容や近況などの情報は極めて断片的にしか入らなかった。
最後のピースが、公判を通じてついに埋まる──。
しかし、取材班の思惑は、公判が始まると戸惑いに変わっていった。
注目の裁判は、事件から4年2ヵ月後の2023年9月5日に、ようやく開廷した。
傍聴席の目の前、わずか数メートルのところに、その男が座っている。世界的に評価の高いアニメ制作会社のスタジオにガソリンをまき、36人もの命を奪い去った。平成以降で最悪の大量殺人。その所業は紛れもなく極悪の一言に尽きる。
なのに、この戸惑いは何なのか。有り体にいえば、これだけの大事件を引き起こす冷血漢に見えないのだ。
検察官の起訴状朗読が終わる。次は被告本人による罪状認否だ。
小説のアイデアを盗まれたという妄想に取りつかれ、筋違いの恨みを抱いて凶行に及んだ男。自らも憎悪の炎に飲まれながら九死に一生を得た男。
その口から出るのは、京アニを冒瀆する呪詛の言葉なのか。
か細く、くぐもった声が法廷に静かに広がった。
「こんなにたくさんの人が亡くなるとは思っておらず、やり過ぎたと思っております」
弁護人が冒頭陳述で言葉を補う。「被告人にとって起こすしかない事件だった。人生をもてあそぶ闇の人物への対抗手段、反撃だった」
極めて危険なガソリンを密室空間にまいておきながら、「やり過ぎた」と反省めいたことを言う。
しかし遺族への謝罪の言葉は出てこない。何より「闇の人物」の登場は全くの想定外だった。この男の心理が読めない。
どこにでもいる一人
男は苛烈な主張を法廷にまき散らすわけでもなく、淡々と生い立ちを語り、時に早口で持論を展開した。
小学生の時はテレビアニメ『ドラゴンボール』に熱中し、高校生になるとバンド「ミスター・チルドレン」にはまったという。
一見、どこにでもいるような青少年だ。
一方で、父親から激しい虐待を受け、極貧生活の中で描いた将来の夢は「大金持ちになること」だった。
取材班の一人は、法廷で半生を振り返る男を見て、思わずつぶやいた。
「そういうクラスメートが一人はいたかも」
公判で男は、非正規の派遣労働で生計をつなぐ自身を「底辺の人間」と定義した。
社会の理不尽さを痛感し、「最終手段は仕返し。力でねじ伏せて黙らせる」という「底辺の論理」を強調した。
「それが犯行に至った理由」とも言い添えた。
彼もまた「就職氷河期」に翻弄された「ロストジェネレーション」(失われた世代)だった。
日本の犯罪史に残る凶悪事件を引き起こした極悪人──。
そんな単純な犯人像にとらわれている限り、この事件の深淵には迫れない。
そう確信した取材班は、公判に伴走する形で全国の関係者を訪ね歩き、事件のさまざまな側面に光を当てる取材を繰り広げた。
大惨事を引き起こすまでのどこかに、凶行を防ぐ手立てがあったはずだ、と。
本書『自分は「底辺の人間」です 京都アニメーション放火殺人事件』は、「底辺」からの一発逆転を夢見てもがき、現実と妄想の中で憎しみをたぎらせていった男の暗夜行をたどる。
そこから浮かび上がる社会のひずみ、福祉の盲点を直視する。
同時に、勝手極まりない「底辺の論理」で最愛の人を突然奪われた遺族の、その後の6年間の苦悩と、決して一様でない心模様を伝える。
何より、かけがえのない、才能あふれた36人の生きた証しを、この社会の中で共有するために。
地元紙ならではのネットワークを駆使し、遺族に寄り添い、6年間取材を積み重ねた渾身の一冊。