男と女はどう線引きすべき?
成人の定義って?
安全な堤防の高さとは?
混迷するボーダレスの時代に基準値の進化は止まらない!
『世界は基準値でできている 未知のリスクにどう向き合うか』、
2014年に出版され大反響を読んだ名著『基準値のからくり』、待望の続編!!
*本記事は、『世界は基準値でできている 未知のリスクにどう向き合うか』(ブルーバックス、2025年刊行)を再構成・再編集してお送りします。
「線引き」よりも大事なことがある
国内と海外の定義の違いや、国内でも定義が揺れ動いたことが、日本における感染対策の混乱に拍車をかけたのではないだろうか。
たとえば、国立感染症研究所は2022年1月、新型コロナウイルスの変異株「オミクロン株」について、「現段階でエアロゾル感染を疑う事例の頻度の明らかな増加は確認されず、従来通り感染経路はおもに飛沫感染と、接触感染と考えられた」として、エアロゾル感染があったことに否定的な見解を示した。
これに対して翌2月、東北大学の科学者らが、エアロゾル感染・空気感染があったことを認めるよう国立感染症研究所に質問状を送付したことがニュースになった。質問状の内容は、「日本でエアロゾル感染や空気感染が多発しているが、そのことを認めるか?」「粒径による分類や、マイクロ飛沫などの造語は意味がないこと、海外との知見とは異なることを、どう理解すればよいのか?」といったものだった。
このように、科学者どうしが線引きをめぐって争いを起こすことが、科学の外からどのように見られるか、それで専門家としての信頼を得られるのか、といったことを、科学者はもっと意識すべきではないだろうか。
エアロゾル感染を認めるか否かより、線引きの根拠や、日本と海外の定義の違いを明らかにすることのほうが重要なのではないだろうか。
科学的に考えれば、感染様式というものは連続的であるのがあたりまえで、ある基準値で二分することに疑問が呈されるのは当然のことだろう。だが、実際の感染対策では科学的かどうかより実効性があるかどうかのほうが優先されることもある。
近距離の飛沫感染はともかくもマスクで防ぎ、空気感染(エアロゾル感染でも、飛沫核感染、マイクロ飛沫感染でも呼び方は何でもよい)は換気で防ぐ、といった対策でも、実用上はほぼ問題ないと思われる。
そして区分については、一般の人々とのリスクコミュニケーションのしやすさで考えると、粒径の大きさや吸うか吸わないかによる区分よりも、たとえば、
(1) 人から人へ方向性をもって飛んでいくもの
(2) 空気の流れに乗ってただようもの
といった分類のほうがわかりやすいのではないだろうか。
(1)は粒径の大小に関係なく、感染者の口から他の人に向かって飛んでいくもので、これはマスクでほぼ防げるだろう。マスクを外す会食などの場面では、パーテーションもある程度の効果があると考えられる。
(2)は感染者がマスクをすることで発生そのものを大幅に減らすことができるが、マスクをしていても隙間から漏れるので、換気をして薄めることが効果的である。
このような説明のほうが一般の人々にはイメージしやすいし、「空気感染」「エアロゾル感染」「飛沫核感染」「マイクロ飛沫感染」などの定義のあいまいな用語が乱立することによる悪影響も少なくなるのではないだろうか。
それにしても、コロナ禍以前は「空気感染」と呼んでいた粒径5μm以下の微粒子による感染を、日本はいったいなぜ「マイクロ飛沫感染」という海外にはない言葉をわざわざつくって定義しなおしたのか。
その理由は、いまだに不明である。
感染対策としての「換気」の基準値
さて、空気感染(もしくはマイクロ飛沫感染=飛沫核感染=エアロゾル感染)が、新型コロナウイルスの主要な感染様式の一つであるなら、その対策としては、ウイルスを屋外に排出するための「換気」が必要になってくる。かのナイチンゲールも19世紀の中頃、病院内における感染症の蔓延を防ぐには換気が重要であることを説いていた。
しかし窓を開けて換気しようにも、真夏は暑いし真冬は寒いで、ついおろそかになりがちだ。そこで換気はどの程度行えばよいかの目安として、ビル管理法にしたがって「CO2濃度1000ppm以下」とすることが推奨され、さらに、その達成のために「換気量30m3/時/人」という「基準値」が示されている。
これは「一人当たり1時間につき30m3の換気をする」という意味である。換気量は測定が難しいので、測定の簡単なCO2濃度が目安となったわけだ。「1000ppm以下」という数字は新型コロナウイルス感染症発生からかなり早い段階で示されていたが、やはり基準値オタクとしては、数字を見ればその根拠が気になってしかたがない。
諸外国でも、感染対策の換気としては「CO2濃度1000ppm」が推奨されている国は多い。だが、必ずしもそれだけではなく、たとえば米国はCDCが800ppmという目標を示している。
また、ドイツは1000ppm以下を「無害」、1000~2000ppmでは「健康と衛生上の問題が上昇」、2000ppm超を「許容不可能」と3段階で評価するガイドラインを示している。やはり基準値ではよくあるように、すっきりと1000ppmで線引きできるものではなさそうだ。
そこで、ここからは「CO2濃度1000ppm」という基準値の由来、そこに至るまでの換気をめぐる歴史、換気と感染リスクの関係などについてみていこう。
「1000ppm」はどこからきたのか
感染対策としての換気の基準値「CO2濃度1000ppm」の由来は、2021年5月に公表された慶應義塾大学の奥田知明らの報告によると、次のようにまとめられる。
・厚生労働省は換気量(外気取り入れ量)30m3/時/人とすることを推奨している
・換気量30m3/時/人はCO2濃度にして1000ppmに相当する
・この数字は感染症を予防するエビデンスにもとづいているわけではない
・現行のビル管理法によるCO2濃度の環境衛生管理基準1000ppmを満たすことで、「換気の悪い密閉空間」にあてはまらないと考えられる
ビル管理法は、1970年に制定された法律である。そのなかで、CO2濃度の環境衛生管理基準として、諸外国とだいたい横並びの「1000ppm」という数字が設定されたのだ。これも「基準値あるある」の一つである。
さらに、1000ppmを超えると倦怠感・頭痛・耳鳴り・息苦しさ・疲労感などの影響がみられる、などの知見も加えて、総合的に勘案されたという。
このビル管理法の数字を根拠にして厚生労働省は2020年3月に、新型コロナウイルス感染対策としての換気の基準を示した。
しかし、この文書にはこうも書かれていた。
「一人当たり必要換気量約30m3毎時という基準は、感染症を防止するための換気量として実現可能な範囲で、一定の合理性を有する。ただし、この換気量を満たせば、感染を完全に予防できるということまでは文献等で明らかになっているわけではないことに留意する必要がある。また、今後の知見の蓄積により、よりよい基準に見直していく必要がある」
どのくらい換気すれば十分かということは、じつはよくわかっていなかったのだ。