2025年に上場企業が行った早期・希望退職の募集人数が8711人、前年同期の約2倍にのぼる一方で、高年齢者雇用安定法が改正され人生後半の働き方について考える40代以上のビジネスパーソンも今後ますまず増加する見込みだ。
バブル期にデンソーへ入社した畔柳茂樹さんは当時、華やかな生活ができる自分を「勝ち組」と錯覚していたそうだ。しかしバブルが崩壊してからは厳しいコストカットが進み、出世競争の現実を痛感する。
管理職に昇進するも、激務と責任の重さに加え、連続勤務26日など過酷な労働環境に直面。うつ病寸前まで追い込まれたのち、思い切って会社を飛び出し、現在は愛知県岡崎市でブルーベリー観光農園を営んでいる。
「会社を辞めたことが人生最大のターニングポイントになった」と語る畔柳さん。当時年収1000万円の安定した暮らしを辞める決断をなぜできたのか。自身の経験をまとめた一冊『会社から逃げる勇気』(ワニブックス刊)からそのヒントを探る。
課長になったら地獄だった
2003年1月課長に昇格。本来は昇格したのだから嬉しいはずだが、私に限ってはまったくそんな気持ちは微塵も感じなかった。前年から仕事内容が大きく変わり、ただでさえ要領がつかめず、あたふたすることが多かった中での昇格であり、またその仕事柄、年初から3月いっぱいが猛烈な忙しさであることがわかっていたので、嬉しいどころか顔が引きつった状態で2003年の新年を迎えた。
さて、新年早々から3月頃までどんな生活だったのかをお伝えすると、出社は遅くとも8時前、部下の誰よりも早く出社し、帰るのは誰よりも遅く22時前に帰れるようなことはまずなかった。
それでも土日に2日休めればいいが、たまっている仕事を片付け、今後の方針など整理しようとすると、どうしても土日のどちらか1日は出社せざるを得なかった。2月になって仕事量がクライマックスになったときは、土日返上が3週間ほど続き、とうとう26日間連続勤務となってしまった。その年齢になって、最長の連続勤務日数を更新するとは思わなかった。
管理職になると労働組合の組合員ではなくなるので、もう組合は守ってくれない。だから労働時間の規制はなく無限に働いても構わない。よくニュースになっている“過労死”が他人事ではないと感じるようになった。
その頃から、妻に自宅から会社に出かけた時間と帰宅した時間の記録をつけておくようにお願いした。万一、過労死したらその記録をもとに労災認定してもらえるようにするためだ。事態は切迫していた。
明るい未来が描けない、見通せない生活に絶望する
課長になって2年はがむしゃらに目の前の仕事を全力で取り組み、職責をまっとうしようと必死だった。その日その日を何とか乗り切ることに精一杯で決して戦略的、計画的に仕事ができたわけではない。従って充実感や達成感などまったくなかったし、プライベートな自分の時間もほとんどなく、未来に希望の光が見えない生活だった。また当時の上司(部長)との折り合いも悪く、パワハラのような扱いを受けることもあった。
課長になって3年目、多少なりとも精神的にゆとりが生まれるようになった。普通なら喜ばしいことだが、事態はむしろ深刻になった。今まで忙しすぎてゆっくり考える暇がなく気にならなかったことが、気持ちに余裕ができると同時に気にかかるようになり、考え込む日々が続くようになった。いつも頭に浮かんでくるのは、 自分は会社にとってかけがえのない存在か?
・自分の会社生活に未来はあるのか?
・自分は一体何のためにこんなに猛烈に働いているのか?
・自分はこんなに仕事ばかりするために生まれてきたのか?
すぐに答えのでないような問いが頭の中で堂々めぐりしていた。
そしてもう少し現実的な問題として次のようなことも考え、感じていた。それは、この先出世してもせいぜいもう1ランク上の昇格、昇給するくらい。そこまでは可能でも、現在の自分の序列を考えると、さらに上に登っていける可能性は極めて低い。
また周りを見回しても「この人のようになりたい」という理想的な上司は皆無だった。この先の会社生活は、まるで真っ暗闇の中を手探りでさ迷い歩いていくような感覚にとらわれた。
決断するとは、何かを捨てること
何かを決断するということは、同時に何かを捨てるということ。決めて断つという漢字のごとく、決断の本質は「捨てる」ことにある。「あなたの目的に沿わないもの」すべてを断ち切ること、これこそが、「決断」の本質ではないだろうか。
私は、好きな農業を仕事にして生活していきたかった。サラリーマンを続けながら、週末だけ農業に携わるという選択肢がないわけではなかったが、それでは目的を達成することができないことは、明らかだった。だから農業で生計を立てるという決断は、同時にそれまでのサラリーマンとしての仕事を手放す、捨てることの決断だ。軽く1000万円を超えていた年収を放棄するという決断だ。
人は、余分なものを抱えながらでは、目的に向かって突き進めないものだと思う。会社を辞めるという決断は、自ら退路を断つことによって、迷いを断ち切り、全速力で前に進む推進力を与えた。
決断したときは、「さあ、いくぞ」という前向きな気持ちだけでなく、一抹の寂しさを覚えた。
それは、いくら居心地が悪かったとはいえ、私にとって会社はまぎれもなく自分の“居場所”であり、それを捨てることへの寂しさは感じた。しかし、その寂しさはエネルギーとなり、決断したことに対する勢いになった。
…後編記事<「この先に希望はなかった」…45歳で「年収1000万円」を捨てた、元デンソー社員の意外な決断>につづく。
畔柳 茂樹(くろやなぎ・しげき)
農業起業家 観光農園「ブルーベリーファームおかざき」代表/2007年に45歳で年収1千万円の安定した生活を捨て独立し、観光農園「ブルーベリーファームおかざき」を開設。近年は、宮城・気仙沼での観光農園プロデュースによる被災地復興に取り組む。