2025年に上場企業が行った早期・希望退職の募集人数が8711人、前年同期の約2倍にのぼる一方で、高年齢者雇用安定法が改正され人生後半の働き方について考える40代以上のビジネスパーソンも今後ますまず増加する見込みだ。
バブル期にデンソーへ入社した『会社から逃げる勇気』著者の畔柳茂樹さんは当時、華やかな生活ができる自分を「勝ち組」と錯覚していたそうだ。しかしバブルが崩壊してからは厳しいコストカットが進み、出世競争の現実を痛感する。
管理職に昇進するも、激務と責任の重さに加え、連続勤務26日など過酷な労働環境に直面。うつ病寸前まで追い込まれたのち、思い切って会社を飛び出し、現在は愛知県岡崎市でブルーベリー観光農園を営んでいる。
「会社を辞めたことが人生最大のターニングポイントになった」と語る畔柳さん。当時年収1000万円の安定した暮らしを辞める決断をなぜできたのか。
自身の経験をまとめた課長になったら地獄だった…45歳のサラリーマンが「年収1000万円」を捨てて手に入れた「最高の暮らし」>からそのヒントを探る。
眠れない日々が続く
自分の未来のことを考えては不安に押しつぶされそうになることが頻繁に起きるようになった。答えのない問いを悶々と考える日々が続いて、いつの間にか、眠れなくなっていた。
正確に言うと寝つきは悪くなかったが、早朝4時くらいにパチッと目が覚めて、もういくら眠ろうとしても眠れない悪い生活習慣が常態化してしまった。
早朝に目が覚めて布団の中で考えることは、その日にやらなければならない仕事のことはもちろん、人間関係の悩みや、自分のこれからの行く末など暗いことばかり。これが私から活力を確実に奪っていった。
眠れないまま6時の起床時間を迎えることになるが、体が重く、出社して自分のデスクに座る頃には、もうくたくただった。これでその日の生産性が上がるわけもなく、暗くどんよりした一日が始まるのだった。
会社内の身上相談室の門を叩く
この自分の体に起きた変調を放置しておいてはいけないと感じ始めていた。まずは社内にある2つの相談室「身上相談室」と「メンタルヘルス相談」の門を叩いてみることにした。これらは会社内にありながらも、相談したことはあくまでシークレット扱いだと聞いたので行ってみた。
以前はこのようなところにお世話になるとは夢にも思わなかったが、このときに至っては、少しでも事態が改善すればと、すがるような想いで足を運んだ。 身上相談室は、会社でのメンタル的な相談に限らず、どんな相談にものってくれるところで、たとえば遺産相続や子育ての問題なども対象となる相談室だった。
ここでどんなアドバイスをもらったのか、まったく覚えていない。多分、行く場所を間違えたと思ったのだろう。
もう1つのメンタルヘルス相談は、資格を持った看護師さんがじっくり話を聞いてくれた。ここでは、しばらく休暇、休職したらどうですかと言われ、最低でも1か月、可能なら1年でもいいと、思い切ってしばらくの間、会社から離れてリフレッシュしてみないと事態は改善しないのではないかというアドバイスだった。
しかしながら、私のとらえ方としては、「そう簡単に言われても困る」「責任ある立場なので難しい」というもので、親身になって言ってくれたとは思ったが、寄り添ってくれている感じがしなかった。
決断するとは、何かを捨てること
何かを決断するということは、同時に何かを捨てるということ。決めて断つという漢字のごとく、決断の本質は「捨てる」ことにある。「あなたの目的に沿わないもの」すべてを断ち切ること、これこそが、「決断」の本質ではないだろうか。
私は、好きな農業を仕事にして生活していきたかった。サラリーマンを続けながら、週末だけ農業に携わるという選択肢がないわけではなかったが、それでは目的を達成することができないことは、明らかだった。だから農業で生計を立てるという決断は、同時にそれまでのサラリーマンとしての仕事を手放す、捨てることの決断だ。1000万円を超えていた年収を放棄するという決断だ。
人は、余分なものを抱えながらでは、目的に向かって突き進めないものだと思う。会社を辞めるという決断は、自ら退路を断つことによって、迷いを断ち切り、全速力で前に進む推進力を与えた。
決断したときは、「さあ、いくぞ」という前向きな気持ちだけでなく、一抹の寂しさを覚えた。
それは、いくら居心地が悪かったとはいえ、私にとって会社はまぎれもなく自分の“居場所”であり、それを捨てることへの寂しさは感じた。しかし、その寂しさはエネルギーとなり、決断したことに対する勢いになった。
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畔柳 茂樹(くろやなぎ・しげき)
農業起業家 観光農園「ブルーベリーファームおかざき」代表/2007年に45歳で年収1千万円の安定した生活を捨て独立し、観光農園「ブルーベリーファームおかざき」を開設。近年は、宮城・気仙沼での観光農園プロデュースによる被災地復興に取り組む。